お問い合わせ  お問い合わせがありましたら、内容を明記し電子メールにてお問い合わせ下さい。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。             

2006-07-07

[]教師改造計画(その4) 09:28 教師改造計画(その4) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 教師改造計画(その4) - 西川純のメモ 教師改造計画(その4) - 西川純のメモ のブックマークコメント


 教師改造計画(その3)に対して、ご当人より以下のレスが来ました。

 『西川先生、おはようございます。○○です。

 学び合いレベルステージが明記されていて安心しました。

> しかし、○○さんが書かれているように、その先があります。

> では、その先を成り立たせているものは何でしょう?

 素材の力のみではない、というのもわかります。しかし、

> 第一の力量は、子どもの反応に敏感で、子どもをバカにしないことです。

> 第二の力量は、同僚と繋がり、そのサポートを受けられる能力です。

 これで、目標設定に対する教師力量の向上がはかられるでしょうか。今の私であれば、この力量2点は、学び合いを成立させる目標設定のための教師力量として大切だと思いますが、これがつけば目標設定の能力が高まるとは言い切れないように感じています。学び合いをしようという教師と学び合いをしようと思っていない教師(表面上は学び合いをしようとしているというかと思いますが)の目標はそんなに違いがあるように思えないのです。だから、この2つの力量なんだ!といえばそうなんですが、とても「ひやく」があるように思えます。それを埋めるものが何か、あるいはホントは何もないかもしれない。今は漠然と思っております。』

 それに対する私のレスは以下の通りです。

 『それは、そうです。でも、「ひやく」をおこすものって、その人、その場に高度に依存するように思います。例えば、最底辺学校にいる先生目標設定の能力と、有名進学校にいる先生目標設定能力は違うように思います。結局、その学校にいる子どもや同僚を通して、その学校に必要な能力を得るしかないと思います。

 認知研究をやっていた最後の時期、私は子どもの誤解のパターンを見出そうとして、かなり多くの事例収集をしました。ところが、パターン多種多様でまとめ切れません。大ざっぱに分けても、数十にはなりそうでした。それ以下にまとめることも出来ましたが、そうなると「ごもっとも、でも、だから何?」というような実践にはあまり役に立たないものになりそうでした。○○さんが書かれた「あるいはホントは何もないかもしれない。」という直感は、10年前の私の直感と同じように感じます。

 私は、「どうしたら、誤解のパターンを明らかにして、それに対応した教師の指導を明らかにするすることが出来るのか?」という問題の設定をやめました。その代わりに、「だれが誤解のパターンを明らかにし、それに対応した指導を明らかに出来るのか?」という問題の設定にしました。その結果は、「当人、及び、回りの同級生」なんです。○○さんの課題も、「どうやったら「ひやく」させれるか?」という問題設定ではなく、「だれが「ひやく」させることができるか?」という問題設定にしてはどうでしょうか?それは「当人、及び、周りの人」なんです。このようなことが成り立つために、当人に求められることは、私は先に書いた2つだと思っている次第です。

 追伸です。

> 学び合いをしようという教師と学び合いをしようと思っていない教師(表面上は

> 学び合いをしようとしているというかと思いますが)の目標はそんなに違いがあ

> るように思えないのです。

 大きな違いが「はっきり」とあります。学び合いを全く考えない先生の場合、目標を言いません。○○さんが小中高で受けた授業を思い出して下さい。例えば算数で3桁の足し算が出来るようにと願っている教師の授業はどうであったでしょう?おそらく、3桁の足し算を教えるし、3桁の問題をやらせるでしょう?でも、この時間の目的は「3桁の足し算が出来るように」と言っていなかった場合が多と思います。また、国語物語の解釈で、登場人物の一人が何故そのようなことをしたかを読み取れる箇所はどこかを見いだせる、ということを願っている授業はどうであったでしょう?おそらく、その目標を言わず、とりあえず段落毎に読ませ、新出漢字を確認し・・という作業を指定していたでしょう。そして、最後の最後に「登場人物の一人が何故そのようなことをしたかを読み取れる箇所はどこかを見いだせる」を言うかも知れません。でも、それがこの授業の最大の目標だと言うことは最後まで言わないでしょう?子どもにとってそれは、段落毎の音読や新出漢字の確認と同じ、一つの作業としかとらえられないでしょうね。

 次に、学び合いをしようとしている教師の中で、それが出来る教師と出来ない教師の違いは明確です。願っていることをストレートに包み隠さず述べられるか否かです。子どもを信じられない教師の場合は、過剰に課題を分割し、本来の目的が分からないような課題を出します。結果として、子どもが主体者になれず、いつまでも教師に依存するようになります。また、また子どもに手の内をさらせず、ぼやかした目標を与えれば、子どもは納得出来ないでしょう。

 授業の最初の5分間だけ聞けば、その先生学び合いを出来るか出来ないかはハッキリ分かります。(少なくとも出来ない先生の場合は)』