■ [懺悔]醜悪

ギリシア文明は多かれ少なかれ奴隷制度がありました。ルネサンスの時代は封建制度でした。両時代とも文明が花開いていました。ギリシャ時代の偉人達を思い起こせば、奴隷を使っていた人が多かったはずです。ルネサンスの芸術家・哲学者の中には封建領主が含まれます。そうでなくても、その封建領主をパトロンとしていた人が殆どです。さて、その人達を奴隷を使っていた、人民を搾取したと非難するべきでしょうか?奴隷制度も封建制度も、その時代の必然であり、個人を非難してもしょうがありません。
家に帰ってみると、ある高名な実践者の特集がありました。そこでは、その実践者のクラスで悪口があり、それを解決している様子が描かれています。二人の子どもがクラス全員の前に出て、私はこんなことを言われたといっています。それに対して実践者がリードして、実は、クラスのある子どもが媒介していることを明らかにします。そして、最後は、3人の子どもがタッチしながら仲直りします。
クラス全員がクラスの歌を歌い、かたぐみをしている姿をほほえましく描いています。
ある重病の人をクラスによんで、その人を核として授業を組み立てています。
これらは良き教師の姿を描こうと思っているようです。しかし、私にとって、その姿は醜悪です。
我々は子どもは教師と同じだけ有能であり、同じだけ愚かだと考えます。だから、無意識のうちに、職員室に置き換えます。さて、以下はほほえましいでしょうか?
『ある高名な校長の特集がありました。そこでは、その校長の学校で悪口があり、それを解決している様子が描かれています。二人の教師が職員全員の前に出て、私はこんなことを言われたといっています。それに対して校長がリードして、実は、職員室のある先生が媒介していることを明らかにします。そして、最後は、3人の教師がタッチしながら仲直りします。
職員室の教師全員が学校の歌を歌い、かたぐみをしている姿をほほえましく描いています。』
この姿は醜悪ではないですか?第一に、その時点で悪口を言い合って問題になるクラスなんて、馬鹿馬鹿しい。我々の同志だったら、小学校1年生であっても2学期段階だったら、教師がしゃしゃり出なくても子ども集団が解決する!それが解決できず、教師がしゃしゃり出たとしたら、それは、子どもの問題ではなく、子どもが解決できないように、教師がしゃしゃり出ている証拠です。
『ある重病の人をクラスによんで、その人を核として授業を組み立てています。』
そんなこと、年間の授業でどれだけ出来るでしょうか?馬鹿げています。我々が責任を持っているのは、イベント的な1時間ではありません。1年間の毎日6時間です。我々が授業公開する場合、イベント的な授業を公開するなんてナンセンスです。我々の場合は、いつでも、どこでも、いつも通りの姿を公開します。だって、年間通して、いつも通りの授業をやっているんですから。イベント的な授業なんて意味ありません。そんなことしなくても、子ども達の関わりは、一人一人の中では凄いイベントなんです。わざわざ、教師が小技をやる必要性はありません。
徹頭徹尾、醜悪です。が、その実践者は素敵です。その志の高さに、私はひれ伏します。が、その実践は醜悪です。
自己嫌悪します。そんな尊敬すべき実践者の姿を醜悪に見て、それを記載する私は醜悪です。しかし、弁明です。その人を否定するつもりはありません。私は、そんな素晴らしい教師であっても、旧来の枠組みの中にあり、その姿は醜悪になることを。でも、そうであっても、そう書く私は醜悪です。
■ [大事なこと]『学び合い』への道

『学び合い』は実に簡単です。分かってしまえば、今日から直ぐに実行でき、直ぐに子どもたちが変化します。学力が向上し、子どもたちの人間関係が良くなります。不登校だった子ども、学級に戻ります。特別支援の必要だと思われた子が、気にならなくなります。こんな夢みたいな事が、直ぐに起こります。ただし、今までのあまたの教材・指導法と決定的な違いがあります。それは切り売りが出来ません。根本となる考え方を理解して頂く必要があります。逆に、根本さえ理解すれば、後は自分で考えればいいだけです。教材毎に本を読む必要はありません。何かの技術を覚える必要もありません。
考え方を伝える最もいい方法は、上越教育大学の西川研究室に入って、その文化の中に浸れば確実に分かります。だって、研究室の中では、ごく普通に『学び合い』を実践しています。そこに浸れば、子どもの立場から『学び合い』を理解できます。そして、そこでの西川を見れば、「あ~、そうか、本で書いてある○○って、こういうことか」が分かります。逆に言えば、「え???、本と逆のことしているじゃない。あ~、こんなことすると、こんなことが起こるんだ・・。だから本ではしてはいけないって書いてあるんだな~」ということが分かります。そして、『学び合い』を理解している上級生、同級生、下級生、さらにはOG・OBが勇気づけてくれます。
が、全ての人が、その機会を得られるわけではありません。職場の事情、家庭の事情、様々です。でも、上越教育大学大学院に入学しなければ『学び合い』を理解できないわけではありません。何度も繰り返しますが、『学び合い』は実に簡単です。分かってしまえば、何で今まで、あんなバカなことをやっていたんだろう、何で今まで、それを気づかなかっただろう、と自分を大笑いできます。が、囚われ、因習に染まっていると、なかなか理解できません。例えば、我々が「子どもを信じる」と言っても、それを否定する人はいません。しかし、我々が「子どもを信じる」というレベルは、普通の先生には信じられないレベルです。だって、我々は数ヶ月間、一言も子どもに細かな指示をしなくても、学習は成立すると信じているんです。せいぜい授業中に言うのは、一生懸命にやっている子どもに、「もう時間だから、やめろ!」という一言レベルです。と、いう、レベルまで信じられないと、本当の『学び合い』は成立し得ません。
では、どうするか?詳細はHP(http://www.iamjun.com/)の「『学び合い』への道」にアップしました。