■ [大事なこと]次
本日は、関西の学生さんが遊びに来ました。その学生さんに語ったことです。そういえば、まだ、ここには書いていなかったと思いだし、あわてて書きます。
私は焦っています。私は『学び合い』を早く定着したくて、焦っています。何故かといえば、『学び合い』の広がりを早く終わらせて、次に進みたい。それが実現した姿を私が退職前に目にしたいと願っているからです。では、それは何か?それは内容です。教育研究のなかで最も遅れている分野は内容論です。方法論に関しては、曲がりなりにも教科教育学や教育方法学で進められています。ところが、教える内容に関しては十年一日です。たとえば、大学でも教科内容に関しては、その内容の基礎となる学問の専門家が教えています。内容と教科内容がほぼ同じで、教科内容の独自性が見られません。私の夢は以下の通りです。
1) 内容の削減
現在の学校教育、特に小学校で教えていることの多くは削減可能と思います。思い出してください。この1年間、計算の筆算をした経験のある方はどれだけありますか?おそらく、ほとんど無いのではないでしょうか?大人の我々が必要ないのに、加減乗除の計算を「覚える」必要が何故あるのでしょうか?九九を覚える必要があるのでしょうか?
この二十年間で、A4版1枚以上の手書きの文章を書いたのは、遠距離恋愛だった家内の結婚前のラブレターと、ゼミ学生のための教員採用試験用の推薦状「だけ」です。すなわち、私は漢字を書くことに関して漢字を覚えている必要性は殆どありません。ワープロソフトで変換結果が合っているかを分かっていればいいのです。つまり、漢字の書き取りは不要で、漢字の読みがあればいいのです。
古文の「あり、おり、はべり」を覚える必要があるでしょうか?関ヶ原の戦いが1600年であることを覚えている必要があるでしょうか?私は無いと思います。しかし、そんなものばかりで小中高の学校教育の殆どが占められています。ナンセンスです。現代社会で新たに学ぶべきものは多いのに、それを学ぶべき時間を確保するには、すでに不要になったものを削減すべきです。
今の世の中で、火おこしを学校の教育内容にする必要があるでしょうか?縄文時代には必要でしたが。そういえば、今から二十年前の昔はマッチの使い方を理科で教えていました。アルコールランプに点火するためです。今も教えているのかな・・・
2) 課題の必然性
学校教育の成立に伴って、学びが徒弟制と分離したあたりから、学ぶ必然性が失われています。『学び合い』では学校教育の目的を大人になるととらえています。そして、学ぶ内容の是非は問いません。それが受験のための暗記物であろうと、旧態依然としている指導要領の規定であろうと、どんなものでも大人になるために意味ある内容にする自信があります。でも、本当に意味あるものであれば良いと思います。では、本当に意味あるものとはなんでしょうか?それを探ることを、「早く」始めたい。英語では、英語圏の発展途上国の子どもたちと小学生が連携して「望ましい経済援助プログラム」を課題としたらいいのではないでしょうか?もし、計算能力が論理的思考力に資するならば、「学校予算の確保のためにバザーを運営する」ということを小学校6学年の縦割り学習の課題とすべきです。「何故、源頼朝は初戦に敗北したのに、最終的に鎌倉幕府を成立できたか?」、「日本の石見銀山と欧州政治の関係」などをテーマとすれば、付随する年号を必然的に理解するはずです。
上記のようなテーマを教育の中心にすべきだという主張は古くからあります。しかし、多くは失敗していました。しかし、『学び合い』が成立した学校では、ごくたやすく実現することが出来ます。そんなテーマだけで埋め尽くされた指導要領があれば、すごいことが出来ます。おそらく、小学校段階で現在の小中高の学習内容は終わります。では、中高では何をするのか?そりゃ、もっとどえらいことをするんです。少なくとも高校生段階では現在科学の未解決の課題をテーマにするんです。地方の高校の子どもたちがノーベル賞やフィールズ賞をとるなんて素敵じゃないですか?また、元禄文化に比すべき、新たな芸術群を生み出したらいいな~。同志からのせせら笑いが聞こえます。でも、私は本当にそれをイメージできます。だって、皆さんの学校でそれが出来るであろうことを子どもたちが示しているじゃないですか!
『学び合い』を実現している最先端の学校では、多くの教師が信じられないことを実現しています。1学期間、ごちゃごちゃした指示をせずに、成績が上がり、不登校はなくなり、特別支援が気にならなくなります。おそらく、我がゼミの卒業生でさえ、信じられないレベルにまで進歩しています。しかし、その先があります。
私は48歳になって、研究能力は衰え、若いときに比べて馬鹿になっています。しかし、同志各位が現実の虜になっていたとしても、私は、同志各位が「また西川先生は馬鹿な夢を追って~」と言われるような荒唐無稽と思われる夢をリアルに思い浮かべることが出来ます。私は上記を荒唐無稽とは思えません。だって、現在、我々が当然に実現していて、でも多くの教師にとって荒唐無稽と思われるもの、その多くは、同志の方々と私と語ったときの私の脳天気な夢だったと思います。夢は実現します。同志の誰よりも荒唐無稽な夢を描けるということが、おじさんになり、やがて、じーさんになる私が大学教師として存在する意義のように思います。
ということで、早く、次の段階に進むためには、早く『学び合い』を広めたい。だから、せっかちになっています。