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2007-11-28

[]考え 22:30 考え - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 考え - 西川純のメモ 考え - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は『学び合い』は考え方であって、テクニックではないと書いていますし、しゃべっています。しかし、これがなかなか分かっていただけない。それが分かっていただけないと、人関係を改善する授業方法、成績を上げる授業方法と思われてしまう。もちろん、人間関係も改善できますし、成績も上げることが出来ます。でも、授業方法と考えている限りは、最高度の効果を上げることは出来ません。さらに言えば、授業方法と考えていると、既存の「いわゆるグループ学習」の一つと勝手に解釈され、失敗してしまうことさえあります。

 我々が大事にしているのは、子どもと大人は同じだけ有能であり愚かであるという子ども観、異質な人とつながれることを学ぶことが学校教育の目的とする人格の完成であるという学校観なのです。それが一致するならば、たとえガジガジの一斉指導をしたとしても同志であり、それが一致しないならばグループ学習をしても同志ではありません。

 具体的な例で説明しましょう。

 例えば、異質な人とつながれることを学ぶことが大事だ、ということに反対する先生はそれほどいないでしょう?しかし、その先生方に問いたいのは、そのことを子どもと接する時間の何パーセントでやっていますか?とたんに10%以下になってしまいます。結局、その程度ぐらいしか大事だと思っていないのです。世にあるグループ学習の実勢者だって、それをやっている時間はどれほどかといえば?です。「学校教育で学ぶのは色々だ」と言い訳されるかもしれません。それでは、その方に問いたい。「では、あなたの考える学校教育の目的をすべて述べてください。さらに、相互の関係と、優先順位を述べてください」と問いたい。結局、言いよどんでしまうはずです。学校教育の目的は何かをちゃんと考えている人だったら、それは言えるはずです。そして、それはその人のクラスにおいて100%を占めているはずです。従って、事前の申し込み無くふらりと授業を見に行っても、つねにその人の主張している学校教育の目的と矛盾無い授業がそこにあるはずです。

 ちなみに、私のクラスである西川研究室の姿を見たいならば、いつでも、断り無くおいで頂いて結構です。私の予定はHPに公開しておりますが、私が不在中でも結構です。いつでも、私が講演会で言っている、また、本で書いている姿がそこにあります。(ただし、ゼミメンバーが帰省中・実践学校に入っている等の理由で不在の場合もありますのでご容赦を。それが嫌ならば、ゼミ生に聞くといいと思います。私に連絡する必要は全くありません。しかし、繰り返しますが、事前の申し込み無く来ても結構です。予定を聞くのは我々の都合ではなく、参観希望の方の都合のためです。)ちなみに、高名な実践者が世に多いと思いますが、上記のことが言える人がどれだけいるでしょうか?もちろん、その先生がいるときは、「いつでもどうぞ」と言える人はいるでしょう。しかし、その人がいないときでも「いつでもどうぞ」と言える人がどれだけいるでしょうか?言えないとしたら、その人の思っている学校教育で学ぶものというのは、先生がいるときに現れるものなのです。言うまでもないことですが、子どもはやがて大人になり、そこには先生はいません。私にはそれが学校教育法第1条に書いてある「人格の完成」とは思えません。

 我々の『学び合い』は世にあるグループ学習とは全く違った姿です。おそらく一般の人にとっては異常に見えるかもしれません。しかし、世にあるグループ学習でやっていることを職員室に置き換えてください。子どもを自分自身に、教師を校長先生に置き換えてください。そのとき、校長が職員にやらせていること、ルールを思い浮かべてください。おそらく、とてつもなく馬鹿馬鹿しいことをやっているはずです。そして、何故、それを馬鹿馬鹿しく思うかを考えてください。そして、子どもはそのことを馬鹿馬鹿しく思わない理由を考えてください。おそらく、そんな理由はありません。子どもにとっても馬鹿馬鹿しいことです。逆に、子どもがそれを馬鹿馬鹿しいと思わないとしたら、もっと恐ろしい。「前の人の意見に続けて意見を言う前に「つけたしで」と言いなさいと校長が求めたら」、「職員室の机の配置はコの字型の方がいい」、「校長が事前に相談し合う先生のペアを決める」、「職員が意見を言う度に、「○○先生の意見は○○だけど、じゃあ○○先生はどう思いますか?」と次の意見を言う先生を校長が決めていたら」・・・すべて、馬鹿馬鹿しいと思いませんか?

 では、一人一人の職員が燃えている学校の姿を思い起こしてください。その姿は、異常に見える『学び合い』の姿なんです。我々はクラスを職場としたいと思っています。さて、職場を思い起こしてください。なんで、我々は職場に行くのでしょうか?それは社会のため、人類のためでしょうか?馬鹿馬鹿しい!まずは生活の糧である給料を得るためです。そして、その上で自己実現できる、やりがいを得るためです。ただし、一人一人の職員が自分だけの給料、自分だけのやりがいを求めた職場で、一人一人が十分に給料を得てやりがいを得られると思いますか?これまた馬鹿馬鹿しい。そんなエゴイスティックな職員が集まった職場では、いらざる衝突ばかりで給料もやりがいもえられません。優れた管理職は、個々のエゴをまとめ、最終的には個々のエゴと矛盾しない課題を与えるはずです!クラスもそうなんです。一人一人の子どもは、自分が勉強が分かりたい、自分が楽しくありたい、と思っているんです。しかし、それが個々人のエゴだけならば、だれもそれを得ることは出来ません。さて、上記に関して、子どもと大人(つまり、教師)と違いがあると思いますか?私はそう思いません。それが我々の子ども観の実際なんです。

 だから、我々は「みんな」という縛りをつけます。そして、業者テストの点数を上げることを求めます。当然のことです。ところが善意の先生方は、「業者テストの点数なんて」とおっしゃる。しかし、それは、「子どものためなんだから」という理由付けで、残業や出張や休日出勤を強いる校長みたいなもんです。また、「みんな」という縛りをすてて、大多数の平均値でOKという教師は、心がやんでいる教師をシランふりしている校長と同じです。おそらく、周りの教師もシランふりするでしょう。、そしてつぶれる教師が生まれます。さて、そんな職場で働きたいですか?

 『学び合い』をいきなり考え方からは入れというのは無理かもしれません。初期段階だったら、とてつもなく簡単に実現することが出来ます。「手引き書」にある語りをちゃんと語れれば大丈夫です。しかし、そのあとは考え方を理解していただかなければなりません。そして、「自分の頭」で考えていただかなければならない。「子どもとはどんな存在か?」、「学校教育はなんのためにあるのか?」、「自分は何のために教師になったのか?」、これらは、空理空論・建前論なのではありません。一番大事なことなんです。