■ [嬉しい]春の香り
大学で仕事をしてると家内からメールです。内容は、宿舎に開いたフキがあるが、大学はどうか?という内容です。直ちに、いつもの場所に行くと、山ほどありました。あっという間に一袋です。今日の夕食はフキノトウの天ぷらと、フキ味噌が加わります。
■ [大事なこと]キリストは悩んだか?
昔見たテレビ番組です。その番組の戦国時代の忍者の番組だったと思います。ある回の放送では、主人公たちが現代とおぼしき時代にいきなりとばされてしまうのです。主人公たちは最初は呆然としますが、やがて、その生活にも慣れます。通勤電車に揺られ、働き、そして税金を取られます。最後になって、その社会は実は地獄だった、ということが分かるという「落ち」です。つまり我々は今、地獄にいるんだという落ちなんです。
地獄があるかどうか分かりませんが、各宗教ではそれなりの地獄像があります。釈迦牟尼は死後の世界を考えるな、とおっしゃているにもかかわらず仏教にさえも詳細な地獄像があります(変だな~)。きっと、釈迦牟尼のお考えとは別に、人は死後の世界を知りたいと思う欲求に後世の人が応えたのでしょう。
さて、上記で語りたいのは、地獄さえも、それを地獄とも思わず、それを日常の世界と考えることもあり得ると言うことです。例えば、隣人が飢え死に、その死肉を食べる地域があるということを薄々知っているのにも関わらず、それに耳をふさぎ、地上の楽園と思いこんでいる国もあるかもしれません。
さて、話変わって、最近ライブ参観をした学生さんより以下のメールをいただきました。
『西川先生
夜分遅くに失礼します。先日はありがとうございました。2月○日のS小学校見学に参加させていただいた、○大学4回生の○です。
この前の橘大学での先生の講演の際、お話を聞き、だいぶ『学びあい』について腑に落ちたつもりではいたのですが、正直、あまりピンときていませんでした。しかし、本物を25日に拝見して、完全に『学びあい』が腑に落ちました。授業見学中に、先生に「ほら、言ったとおりでしょう?」と言われ、涙がこぼれそうになりました。全ての人に優しい形ってこれなんだ、これしかない、って。もう一斉授業ができません。笑
子供たちのことを思ったら、一斉授業は『学びあい』にはるかに劣ると思います。私は大学院で学んで教師になろうと思っていたため、あと2年間は大学に通います。しかし、早く『学びあい』をやってみたくてしょうがありません。私個人としては、一斉授業に憧れて教師になろうと思ったので、一斉授業が子供のためにならないと悟った今、自分が子供たちと深く関われない今、少し寂しいです。しかし、きっとその気持ちは私のエゴなのですよね。そして、西川先生の言われたように、『学びあい』をはじめて一ヶ月もすれば寂しいという気持ちは消えているはずですよね。自分が教えられなくて寂しいと思ってしまう自分が少し嫌です。笑
○君や○君と一緒に帰る車の中でも、『学びあい』についてたくさん話しました。とにかく今は、早く『学びあい』をやってみたいです。西川先生、本当にありがとうございます。また是非お会いしたいです!!』
私の返信は「ありがとう同志。どんどん、みんなに広めましょう。子どものため、友のため、自分のためにね。期待しています。」です。
この学生さんのメールを読みながら嬉しく思いました。しかし、「もう一斉授業ができません。」の部分を読みながら、ふと変なことを思い始めました。それはキリストは悩まなかっただろうか、ということです。キリストはペテロに教えを伝えたとき、ペテロがその後どのような苦労をするかを知っていたはずです。教えを知らなかったら漁師として幸せに生涯を終えたでしょう。そして、教えを受けなかったために堕ちる地獄には、圧倒的大多数の人類がいます。その中にはペテロの両親や親戚がいます。はたして、彼はそれを地獄と認識できたでしょうか?
この学生さんは、『学び合い』をしることによって、現場で苦労することも多いかもしれません。今、多くの同志が感じていることです。でも、『学び合い』を知ることによって得ることは大きいと私は信じています。つまり、「子どもが大人になる」ということを志を全うできます。