■ [大事なこと]一貫すること(その2)
本日の「一貫すること」というメモに、ゼミ生のお一人から以下のメールが来ました。
『こんにちは、○○です。小さなことですが、ふと疑問に思ったのでお聞きします。今日のブログに【一貫すること 私はテクニックとしての可視化をしません。】とありますが、先生が、ゼミ生にブログを書かせているのはテクニックとしての可視化ではありませんか?今「テクニック」に迷い浸っているせいとだ思いますが。もし、お時間があればお教えください。』
面白いコメントです。私としては、ゼミ生からレスがあるとすれば、「先生はブログでゼミの様子を書いて、可視化しているんじゃありません?」というレスがあるかな、と思っていました。そうしたら「私がゼミを書いていることを見直してみな。その情報を知ったのは、おそらくゼミの中で私が一番後というのが多いと思うよ。テクニックとしての可視化は、その情報を教師が発することによって、有効な情報があることを知り、子ども同士が関わり合うきっかけを与えるものだよ。でも、子ども同士が十分に関わり合うようになったら、そのような可視化は不必要になる。じゃあ、何故、ブログでゼミの情報を公開しているか?それには二つ理由があります。一つは、「それは素晴らしいことだ」と評価しているのです。評価は年間を通して教師がやらねばならない大事なことです。それによって、目標が何であるかを伝えることが出来ます。が、そんなたいそうなことを考えてやっているのではなく、感激したことを自慢する、それが評価になります。もう一つは、外に対する可視化です。先の「一貫すること」で自慢したのは、それはゼミ運営に関してです。私はゼミ内部のコミュニケーションに関して不安はありません。でも、ゼミ生と外とのコミュニケーションは不十分だと考えています。だから、私がきっかけとなる可視化をしているのです。なお、この可視化をいつまでも私がするのではなく、ゼミ生が自ら可視化することが望ましいことは当然ですよね。その手段がブログです。なお、私がゼミ生にブログを「強く」勧めるときに何と言っているか思い出してね。それは「日本を変える」ということを言っていると思うけど。つまり、ブログを勧めているのは目標の設定をしているんだよ。」と一気に書こうと用意していたんです。ところが、前段の部分は分かっているようです。でも、後段の方が不十分なようです。
ということで、○さんへ。そういえば、恥ずかしがり屋のだれかさんはブログまだだったよね。ふふふ。自ら、地雷原に足を入れたこと、今分かった?あははははは
■ [大事なこと]我々の出来ること
人は家庭か職場か学校か、何でも良いですから、人と豊かにつながることが出来たならば幸せになれると私は思っています。そして、平凡であっても、穏やかな生活を続けることが出来ます。我々は教え子の家庭をどうこう出来ません。我々は教え子の職場をどうこう出来ません。我々教師は政治家ではなく、福祉や子育ての助成金の額を決めることは出来ません。また、公民館を建てることを決定することは出来ません。我々は、限られた期間だけ教え子を担当します。次の学校段階に進んだ後は何も出来ません。それは会社に就職したり、作業所に入った後は何も出来ません。我々は会社の社長ではなく、教え子の給料・待遇を決めることは出来ません。しかし、もっと凄いことが出来ると思います。
それは自分が管理している期間は短くも、一生のつながりをもてる仲間集団を子どもに与えることが出来ます。具体的には、クラス会を毎年やるようなクラス、そして、その出席率が100%に近いようなクラスを作ることが出来ます。もし、異学年の『学び合い』、保護者を巻き込んだ『学び合い』を実現できたなら、まさに地域コミュニティを作ることが出来ます。これは、教え子の幸せにとって、消費税が1%上げたり下げたりする以上、公民館を建てる以上、月給を1万円上げる以上の意味があると思います。
上記には多くの障害があり、困難もあると思います。でも、我々は一国の首相、フォーブスに載る社長より凄いことが出来ると思うとワクワクしませんか?
■ [大事なこと]一貫すること
私は入門者が分かりやすいために、テクニックを書きます。でも、それは「考え方」の影であって、本体ではありません。
例えば、可視化もそうです。あれはテクニックに過ぎません。意識的に「褒める」ことをやっていたら、こりゃだめです。おそらく子どもにとってはうるさいですし、じゃまです。まあ、せいぜい2、3週間程度ぐらい有効のテクニックに過ぎません。それ以降は、本当に感動したことを、そっちょくに言葉にすればいいことです。
業者テストを利用したり、一律の最低点を課すこともテクニックに過ぎません。大事なのは、「みんな」の意味を理解し、達成すべきことを理解することが重要なんです。ひねった課題でやり続けることは無理があるし、全ての人が出来るわけではない。だから、方便としてテクニックを紹介しました。ある同志は、そのことを求め続けて、1年間をかけてごく普通のクラスで最低点100点を達成しました。これは凄いことです。でも、私の知っている最高の事例は、他にもあります。それは、能力的に著しく劣る子どもがいるクラスの事例です。我が同志はそのような子がいることを十分理解しているにも関わらず、最低点80点を求め続けました。しかし、「当然」それは成り立ちません。それでも求め続けました。その結果、子どもたち(「その子」も含めて)は相談して、新たな達成課題を教師に提案してきました。そして、その課題において、「その子」を含めて全員が高まるということを、全員が求めていました。
『学び合い』の最終的な目的は、大人集団を育てることです。それは『学び合い』の考えを理解する集団を育てることです。さらに、『学び合い』を広げようという志を持つ集団を育てることです。即ち、我々が目指していることと同じだと思います。学力向上・不登校の減少・特別支援の困難の解消・・・・、それらは結果として表れることです。私は『学び合い』に反することを「たびたび」します。しかし、上記に記した「考え方」に関しては一貫していると思います。
私は自慢します。私は「学び合え」とはゼミ生に語りません。私はテクニックとしての可視化をしません。私は殆ど教えません。でも、たまに教えることがあります。しかし、ゼミ生はそれを鵜呑みにしません。納得できなければ従いませんし、無視します。一律の最低基準なんて設けません。私が語るのは、「どうしたらいい?」と聞き、「期待しているよ」と語るだけです。ゼミ生は、私が何を望んでおり、何を嫌うかを知っており、それはゼミ生集団の中でその理解は一致しています。さらに、私は偉そうに『学び合い』を語っているにも関わらず、とんでもない失敗をしでかします。それは、「考え方」の誤りに根ざすものです。その場合は、ゼミ生集団に率直に謝り、そしてどうしたらいいか教えを請います。私はゼミ生集団が私を正せる能力を持っていることにみじんも不安はありません。私はゼミ生を誇りに思っています。
我がゼミの目標は「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、教育を改善しよう」です。この目標に関しては、私は頑固であり、絶対に譲らないことをゼミ生は知っています。