■ [大事なこと]外からは分からない
よく苦労した人は人に優しい、と言いますが、あれは嘘です。苦労した人に は二種類います。もちろん、「俺は苦労したから、おまえにはそういうことはさせないよ」という人もいますが、「俺も苦労したんだから、おまえもそうするの が当たり前だ」という人もいます。たいていの人の場合は、「苦労はためになるよ」なんていうことを言い訳につけるかも知れませんね。
若い人は革新的で、年長者は保守派である、というのも嘘です。経験したから保守的になる人もあれば、経験したから大胆になれる人もいます。経験が無いから革新的になれる人もあれば、経験がないから保守的になる人もいます。
経験ではなく、その経験をどのように生かすかという、根っこの部分が大事のように思います。その根っことは、経験があろうが無かろうが、どうあるべきかということを理解するセンスです。どうあるべきかが、あって、現実をそれに近づける意思の力です。
■ [大事なこと]禁煙
今を去ること四半世紀以上前、私が大学院1年のある日、禁煙しました。その時、同級生のTと、互い持っていたタバコを全てその場で吸い、それ以来、一度も吸いません。禁煙は辛いものです。いまだにタバコを吸わないのは、あの禁煙の辛さをもう一度やりたくないからです。その経験によれば、止めたときにはすぱっと止めるほうが辛くないと思います。世の中には、日に2箱を、日に1箱にして、10本にして・・・というふうに止める人がいるのかもしれません。でも、私には絶対に無理です。1本でも吸えば、誘惑に負けて、あっという間に2箱になってしまう。だから、止めたときはすぱっと止める方が辛くない。
本日、地元の学校に行きました。今年から学校で『学び合い』に取り組むと決めた学校です。参観してみると、『学び合い』に対する間合いが様々でした。つまり、私がよく例示するように、教師の語りは数分で、あとは子どもに任せる、という先生もおられます。一方、一斉指導と見まがうように、『学び合い』を取り入れている先生もおられます。その様々な間合いがあることがとても、いいな~っと思いました。
私は、『学び合い』の考え方をシンプルに徹底した方が、良いと思っています。禁煙と同じで、苦しいですが、短い期間で従来から決別できる。でも、世の中には別な人がいても良いと思います。元の木阿弥になる危険性があるものの、従前の授業と徐々に変わっていく流れがいい人がいても良いと思います。
方法は良いんです。要は、自分が子どもに接する時間の1分、1秒の例外なく、子どもを大人にする時間になっているという確信を持ちたいと思うことです。自分がすくなから無い子どもを見捨てている、あの子を見捨てている、という自責の念から脱することを目指すことです。そして、自分が素晴らしい人生を過ごしているという確信を持てるために、人に何かを与え続けているという確信を得るために。
とても、したたかな学校に、安心を頂きました。
■ [大事なこと]基礎
『学び合い』は一斉指導(まあ、従来の授業というぼやっとした意味で捉えて下さい)の基礎の上に出来ると考える方がおられます。一部は正しく、一部は間違っています。
素晴らしい一斉指導の出来る先生は、素晴らしい『学び合い』も出来ます。これは正しい。でも、逆に言えば、素晴らしい『学び合い』を出来る先生は、素晴らしい一斉指導も出来ます。これは意外な人もいますが、事実です。
どうも、声の出し方がうまい、とか、絶妙な発問を出来る、とか、教材の引き出しが多い、とかが出来て、子どもを掌握した後に、『学び合い』が出来ると思っている方は少なくありません。私もかっては、そう思っていました。しかし、今はそう思っていません。
例えば、かつて西川ゼミは「好きな先生」はどんな先生かを調査しました。そのころは私はうまい授業に誇りを持っていた時期ですから、当然、授業のうまい先生が必須要件であるという結果が出ると予想していました。ところが、違いました。「授業は分からないけど、好き」という回答は少なくありません。でも、考えれば当たり前です。
我々の子どもの時を思い出して下さい。担当の教師をテクニックレベルで好き嫌いを評価していなかったと思います。結局、「自分たちをどう思っているか」ということを感じ、評価していたと思います。つまり、ハートで評価してたと思います。まあ、女性を口説くのにテクニックがあった方が良いに超したことはありません。でも、テクニックだけだと早晩、見破られてしまいます。結局は、ハートです。ハートがあれば、やがて分かってくれます。もちろん、ハートとテクニックの両方あれば良いに超したことはありませんが、どちらか一つと言えばハートです。少なくとも、くっついたり離れたりの遊び相手ではなく、生涯の伴侶ならば、ハートだと思います。
でも、ハートがあっても口説けない場合はあります。相性がありますから。教師も同じです。ハートがあっても、その教師を好きな子どももいますが、嫌いな教師もいます。しかし、優れた授業をしている教師は、集団の動かし方を知っています。つまり、クラス運営を知っています。自分と相性が悪い子どもであっても、自分の相性の良い子どもを通じてつながることを知っているのです。
上記のことは『学び合い』でも、一斉指導においても同じです。
でも、上記を満たしている教師が全てではありません。上記を満たしていない一斉指導をする先生もいます。上記を満たしていないで『学び合い』(?)をする先生もいます。どちらも、救える子どもがいる一方、救えない子どもがいると言うことは同じです。教育効果に関しては、どちらも不十分です。しかし、両者には違いがあります。上記を満たしていない一斉指導をしていても、そのアラが見えにくいという特徴があります。ところが、上記を満たしていないと、『学び合い』はもろに見えてしまうという特徴があります。
私はもろに見えてしまうという恐ろしさの反面に、それ故に、改善が図れるという点で『学び合い』は優れていると考えています。それに、一斉指導の路線で、授業改善するということは、無茶苦茶に大変なことなのです。というのは、全ての子どもに分かる説明をして、全ての子どもにやる気を持たせる授業をすることを実現しなければならないからです。これには無限の記憶と、無限の才能と、無限の努力が必要となります。一方、『学び合い』は考え方を定めて、子どもに求めるという、至極シンプルなことをすればいいのです。これは凡夫でも出来ます。
つまり、全員の学力の確保、全員にいごこちのよい場の保証、そして全員が大人になるということを実現するというこを求めるならば、『学び合い』の方が楽です。しかし、全員の学力の確保、全員にいごこちのよい場の保証、そして全員が大人になるということを実現ことを求めないならば、現状では一斉指導の方が楽です。残念ながら、現状の学校は、全員の学力の確保、全員にいごこちのよい場の保証、そして全員が大人になるということを実現を本気で願っていないようです。
全員が実現できなくても、「子どもが悪い」、「親が悪い」、「制度が悪い」、「だって他のクラスだって同じだもん」ですましています。ま、それはそれでしょうがないのかも知れません。でも、そういう合理化をしたら、ボディーブローのように効いてきます。教職に対する誇りが腐ってしまいます。