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2008-05-11

[]何故、テクニックに反発し続けるのか 21:58 何故、テクニックに反発し続けるのか - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 何故、テクニックに反発し続けるのか - 西川純のメモ 何故、テクニックに反発し続けるのか - 西川純のメモ のブックマークコメント

 テクニックに関して最近メモを書きました。言葉足らず故に、心配かけるつもりのない方にまで気を遣わせました。すんません。ちゃんと説明したいと思います。長文です。

 平成12年にSという学部生が画期的な研究を行いました。Sはある学校で「自己モニター」を実践してもらい、その有効性を明らかにしようと思いました。ところが、見事に惨憺たる結果です。その結果は私にとって理解不能でした。自己モニターは平成9年頃に開発されたものであり、実に有効です。今までの学び合いに関する指導法とは違って、子どもたちの中に学び合う能力が内在することを前提としたものです。子どもは自分と同じだけ有能であり、かつ、無能であるという我々の学習者観に基づく指導法です。9年、10年、11年の実践研究でもいずれも有効な指導法でした。ですので、それが無効であることは理解不能でした。しかし、Sの記録を見直すと理由は歴然としています。お願いした学校の先生方(西川ゼミ以外の先生)は自己モニターをします。それは15分間ですみます。たしかにちゃんとしています。ところが、その先生はそれ以外の時間、つまり、圧倒的大多数の時間も子どもに接しているのです。その様子を見ると、目を覆うような姿でした。つまり、子どもが無能であり、手を抜くと遊び出すということを前提とした言動をしているんです。

 分かってみれば当たり前です。つまり、子どもは指導法によって行動するのではありません。担任している先生の全ての時間の言動によって総合的に判断し行動しているのです。新しい校長が来たとき、我々はその人の職員会議での演説で行動を決めているわけではないですよね。その人がどのような言動をしているか、総合的に判断し、それに合わせた行動をしています。9年、10年、11年の実践研究でもいずれも有効であったのは、それは西川ゼミの先生方の実践だからです。西川ゼミの先生であるので、子ども観が理解されています。従って、自己モニターをしていないときも、我々の子ども観に基づく言動をしているのです。その結果から、テクニックではなく考え方が重要なのだということを、嫌と言うほど理解しました。

 『学び合い』の同志であるか、否かは、数百キロ彼方の私が分かるわけありません。でも、その人の子どもたちは分かります。その子どもの言動を聞けば、同志であるか否かは分かります。同志であっても、どの段階で苦労しているか、いないかは子どもの様子(例えば、そのクラスの出来る子の行動)を聞けば分かります。そして、日本には素晴らしい『学び合い』の実践者がいることを知っています。その方々は、『学び合い』が大事にしている考え方を理解し、それがにじみ出る言動をしています。それがコンパクトに表現できるテクニックを駆使されます。私もそうです。ただ、私の危惧するのはそれを表現したものを読んだ方は、考え方ではなく、テクニックの部分をまねてしまうのではないか、ということです。我々は考え方を共有しています。でも、共有していない方の場合は、テクニックを使います。そして、Sの研究のように惨憺たる結果を得ることになります。

 私はネットサーフィンをします。そうすると「『学び合い』が、○○先生のこれこれの一文と一致する」と書いている方に出くわします。嬉しい反面、困ったな~、と思います。というのは、大抵、いや100%はテクニックレベルの話なんです。まあ、授業観レベルの一部分までが限界です。たしかに見かけは似ているように見えるかもしれません。しかし、学校観、子ども観は全く違います。不遜ながら書きます。今までの教育の世界の巨星の書かれている本の中で、教育観を書かれているものの中には、『学び合い』と一致するものがあります。しかし、その方々の授業論は一致していません。授業論の一部で一致している方はおられます。しかし、その全体としては相反しています。つまり、教育観が違うのです。私の知る限り、教育観、そしてその反映した授業論で一致している人はおりません。だから革命と思っています。もちろん、考え方及び方法論で一致する人が皆無とは申しません。ただし、その方々は、経営学(教育経営学ではありません)や経営者の方々です。

 いままでの教育の巨星の方々は、子どものよき親(よき兄・姉)になることを目指しているように感じます。しかし、小学生にも分かる算術で、私はそれは無理だと思っています。だから、教師は職場の管理者となるべきだと思っているのです。それが、愛する子ども守るすべだと思っています。この考え方自体が革命なのです。

あ~・・・・、これで考え方を理解しない善意の教師を敵に回してしまうだろうな~・・・。でも、大事なことなので書きました。すみません。

追伸 Sの研究を協力していただいた先生も善意の方です。教師の仁義として、その失敗は公開していません。だから、上記のことはあまりあからさまに書いたことがありませんでした。 

追伸2 と、上記に書きましが、人に語るとき、テクニックで表現する方が有効な場合が多いことも確かです。そして、私もそうしています。じゃ、どうしたらいいか?一緒に考えましょう。

[]カーネーション記念日 17:01 カーネーション記念日 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - カーネーション記念日 - 西川純のメモ カーネーション記念日 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 母の日だからカーネーションを贈りたいというので、息子と一緒に花屋に行きました。息子が300円を出し、私が225円を足して花束を買いました。花束を大事に持って帰宅し、家内にプレゼントしました。

[]テクニックを捨てる 09:32 テクニックを捨てる - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - テクニックを捨てる - 西川純のメモ テクニックを捨てる - 西川純のメモ のブックマークコメント

 剣の道を究めると、最終的には剣を持たなくなるという話があります。『学び合い』の十数年の研究もテクニックを捨てる歴史とも言えます。

 最初は川合さんの「自己モニター、ロールプレイ、ビデオ視聴」というテクニックを使っていました。しかし、15分間×3回で学び合いが実現できるのですから驚異的なテクニックです。しかし数年後には自己モニターの15分間1回で実現できることが明らかになりました。しかし、考え方を理解していない人が自己モニターをしても『学び合い』が成立せず、考えを理解した人は自己モニターをしなくても『学び合い』を成立することが明らかになり、自己モニターを捨てました(まあ、有効なテクニックではありますが)。

 私は何もしないことを誇ります。普通の教師が自分のやったことを誇るのに対して、『学び合い』では何もしないのに凄いことをする子どもを誇ります。その子どもを誇ることによって管理者としての自分を自慢するのが『学び合い』の作法です。

もちろん、私もテクニックを使います。しかし、それを恥じます。理由は以下の通りです。

第一に、誇り始めれば、テクニックの罠に陥ります。「この技が大事だ」と言い始め、それを改良し始めたら、あっという間に元の木阿弥になります。テクニックが必要な場面があることは確かですが、そんなテクニックを使わなきゃならないクラス集団だと身を正すぐらいが良いバランスだと思います。

第二に、上記の授業中のテクニック以上に大事なテクニックややるべきことがあるからです。私の例で書きます。

私はゼミに年間で2回(最初と最後)しか行きません。つまり、小中高に置き換えれば、4月の授業開きに一年間にやるべきことを10分間程度語り、3月の最後に1年間の成果を評価します。それだけです。テクニックの入り込む余地は全くありません。だって、「いない」のですから。

 一方していることがあります。例えば、ゼミ生同士がお茶を飲みながら話している話を寝っ転がりながら聞きながら、また、机の上の資料を見ながら集団が健全であるかを評価しています。声の調子や資料を一瞥しただけで何が行われているかを察するにはテクニックが必要です。

 ゼミ生から「これで良いですか?」と聞かれると、「何で私に聞くの?」と突っぱねます。が、危ういなと思ったときには、大学の事務の人と相談して大学の規則上どうなっているのかを調べます。そして、最悪の場合にも対応できるように、学内政治で対応をします。上記を実現するには学内のどこが「つぼ」どころであるか、そして、どのように押すべきかは私のテクニックが必要です。

 我々は学校に入り込んで実践研究をします。現職院生さんの場合は、それがご自身で出来ます。しかし、学卒院生さん、また、学部生さんはそれが難しい。だから、事前に外部と調整し、受け入れ可能校を確保しておきます。その上で、彼らがもがくのをじっと見ています。そのためには、現場学校との私のネットワークの蓄積が必要です。

 我々の実践研究では大量のICレコーダーやビデオカメラが必要です。生半可の予算では実現できません。その予算を獲得することが私の仕事です。予算を獲得するにはどうしたらいいか、その書類をどのように書いたらいいか、これもテクニックが必要です。

 学部・修士課程で学んだ学生さんがもっと学びたいと希望するならば、博士課程の道があります。また、教育研究を職としたいと願う方もおられるでしょう。もちろん、そのような方への要求水準は生半可ではありません。そして、何も約束しません。しかし、その方の希望がかなうように動きます。これまた「つぼ」どころと、押し方があります。

 私の仕事は、集団の評価、リスク管理、外部との交渉(実践校)、予算の獲得、人事であり、それには高度のテクニックが必要です。その大技小技を駆使しまくります。

 以上と比べて、授業におけるテクニックは見劣りませんか?そんなことをしなくても子どもが実現できます。しかし、私がやっているテクニックの部分は、子どもが絶対に出来ない部分です。それをやっています。それが私の仕事だと思っています。

 それ故、私は授業中のテクニックを誇らず、恥じます。私は教授ですが、大学における教授は学校における教諭です。実は、教諭の皆さんにも子どもには出来ず、教諭だから駆使できるテクニックがあるはずです。『学び合い』における教師は、校長なんです。想像してください。人事や予算はとんとやってくれないが、指導案の指導に燃える校長がいたらどう思います。そして、それを喜んでいる職員集団がいたら、おそろし~

 校長だって、自分の学校の仕事だけの校長もいますが、市・郡・県レベルを視野におく校長もいます。『学び合い』の教諭だって、自分学校レベルの仕事もありますが、市・郡・県レベルの仕事もあります。ほ~ら、授業中のテクニックなんてちんけなものじゃないですか。子どもたちと一緒になって、そのレベルは早く乗り越えましょう。もっと、もっと先があるのですから。