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2008-06-20

[]中間 00:47 中間 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 中間 - 西川純のメモ 中間 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は『学び合い』と一般の“学び合い”(「学び合い」)との違いをことさらに言い立てます。言い立てながら、嫌な気になります。宗教でも習い事でもスポーツでも、いずれも時間がたつと分派が生まれます。そして、分派同士が「違いはここだ」と言い立てて争います。当人同士は必死ですが、事情を知る人にとっては滑稽です。だって、大抵はお家騒動、財産分与などの個人のエゴが分派の発端です。もっとも有名なのはイギリス国教会で、ヘンリー八世が自分の離婚を合理化するためにたてた分派です。そういうことを分かっているので、『学び合い』と一般の“学び合い”(「学び合い」)との違いをことさらに言い立てることが本当は嫌です。が、します。本日もあるゼミさんから、「『学び合い』と一般の“学び合い”の中間はあるのではないか?」と聞かれました。しかし、言下に「ありません」と応えました。そして、以下のように説明しました。

 おそらく、『学び合い』と一般の“学び合い”を見分ける簡単な方法は、教師がどれだけ全体に向かってしゃべるかで分かります。しかし、『学び合い』の同志の中には、相対的に長くしゃべる方もおられるし、一般の“学び合い”を実践している方の中には短くしゃべる方もおられるでしょう。そのレベルだったら中間はいくらでもあり得ます。私も一見は一斉指導に見まがう『学び合い』があることは知っているし、一部の同志にはそれを勧めます。同時に一見は『学び合い』に見まがう一斉指導もあります(これが、一般の“学び合い”)。しかし、両者を見まがうことはあり得ません。なかなか分かってもらえないのですが、『学び合い』は考え方であって、授業方法ではありません。授業方法のレベルならば中間はあり得ますが、考え方の場合は中間はないのです。

 『学び合い』は学校観、子ども観に基づくものです。少し解説します。『学び合い』では多くの人と折り合いをつけて課題解決出来ることを学ぶことが学校教育の目的だと考えています。その課題解決には学力向上もありますし、人間関係作りもありますし、その他もあります。それらがトータルに解決できると思っています。一方、一般の“学び合い”では学力向上を主にねらっていたり、人間関係作りを主にねらっていたりしています。両者を狙っていたとしても、学力向上の先に人間関係がある、逆に、人間関係の先に学力向上があると考えています。この考え方の違いは、色々なところに現れます。例えば、『学び合い』では多くの人と折り合える場と目的を与えれば、学力向上、人間関係作りがトータルにバランスよく成立すると考えます。ところが、一般の“学び合い”の場合は、一方を全く無視する場合があります。両者を狙う場合は、学力向上と人間関係作りに関して、独立の手だてをもうけようとします。

 『学び合い』では子どもたちは大人と同じだけ有能であり、かつ、限界を持っている、つまり大人と同じだと考えています。しかし、一般の“学び合い”では子どもたちは保護されるべき幼いものだと考えます。この違いは授業に現れます。現実問題として、子どもはたち保護される場面があります。そのような場合、『学び合い』では、自分が未熟だからそのような保護すべき場面が生じるのであって、本来は保護しなくてもいいようにしようと考えます。ところが、一般の“学び合い”では保護するのが本質的であり、そこにこそ教師の意味があると考えるので、もっと精緻な保護の仕方を考えようとします(これは一斉指導と全く同じです)。

 この考え方の違いに基づく差が見づらい場合もあります。例えば、先に述べたように教師のしゃべる時間などで差がないように場合があります。しかし、私が両者を見まがうことはまずありませんし、それ以上に子どもが見まがうことは絶対にあり得ません。何故ななら、教師が45分間(50分間)子どもの前にいたならば、その時間全てで色々な情報を発しし続けるからです。そして、それが数週間、数ヶ月続くのです。間違うわけありません。例えばです。「お上」から、今までにない書類を書くよう学校に求められ、校長が管下の職員に書くよう職務命令を課したとします。さて、「その書類を書くことは教育改善に本当に大事なことだと考えている校長」、「その書類は命令されたから書かねばならず、書かせるのが校長の仕事だと考える校長」、「その書類は教育改善には役に立たないが、とりあえず書かせなければならないと考える校長」・・・・、これらを見まがうと思いますか?そりゃ、全ての校長は職員会議で「○月○日までに、○○という書式に合わせて書類を書きなさい」と言うかもしれません。文字にしたら同じ言葉であっても、それを語るときの表情やイントネーションは違うはずです。また、書式からどれだけ離れた書き方を許すか、そして、どんな書き方を許すかは違うはずです。それに気づく職員は必ずいるはずです。そして、多くの職員はそんな職員の対応を見習います。

 私は『学び合い』に関して、十数冊の本を著し、多くの雑誌に寄稿し、手引き書を書きました。しかし、それらは文字にしたら数行で収まることを伝えることが目的なのです。しかし、その数行の重みを分かってもらうために、それらを書いたのです。だから、偏狭に見られるかもしれないな~っと恐れつつも、『学び合い』と一般の“学び合い”の差に拘ります。その差は、同じ「あめ」でも「雨」と「飴」ほと違うのです。ひらがなで理解しようとするならば誤解しますが、雨と飴を間違う子どもはいません。

追伸 学び合いはみんな同じ方向性を持っています、と言った方が穏やかで通りが良いことは百も承知二百も合点なんです。『学び合い』が考え方であるということが、ある程度認知されてからだったらそうします。しかし、今の段階では違いを主張せざるを得ないのです。

[]経験5年 22:45 経験5年 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 経験5年 - 西川純のメモ 経験5年 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『「静かに!」をいわない授業』という本をかなり前に出しました。そして、その本の副題は「教員経験5年未満の方は読んではいけません!?」です。お茶目な、洒落でネーミングした副題です。当時から、センスのいい人は経験5年未満でもOKだし、経験が数十年でもだめな人はいるということは分かっていました。しかし、まあ、経験不足の人は、ちょいと待ってもらおうという気持ちがありました。なにしろ私の研究室を巣立っていく学生さんたちには、「とりあえずは一斉指導をして、学校でそれなりに認められてからやりなさい」と送り出しました。が、最近はそれを改めました。新規採用から『学び合い』をやることを止めるつもりはありません。そこをあるゼミ生から今日聞かれたので、ちゃんと応えました。それをここに書こうと思います。

 『学び合い』がうまくいくかいかないか、という問題以前に、新規採用者が苦労するのは目に見えています。その新規採用者がみんなと同じことをやった方が楽なのは明らかです。なにしろ、自分の身を守るだけの実力はないのですから。では、数年は普通のことをやって、それから『学び合い』なのでしょうか?最近、本当によく分かりました。みんながやっていることを数年やれば、よほどの覚悟がない限り、それからみんなのやっていることをズルズルとやるのです。これは、どんなに『学び合い』の凄さを知っても、それは無理だと言うことを知りました。『学び合い』を知っている、知っていないの問題では無いのだと言うことを分かりました。。

 言うまでもなく、その人がダメだとか、愚かだとかという訳ではないのです。人間の本性がそうなっているので、しょうがないのです。何度もメモで紹介したとおり、我々が概念転換をするには、以下の4条件が必要です。

1)先行概念への不満が生じなければならない。

2)理解可能な新しい考えが、利用可能なものでなければならない。

3)新しい考え方は、もっともらしくなければならない。

4) 新しい考え方は、先行概念より生産的でなくてはならない。

 2)~4)がいくら成り立っても、1)が成り立たないと、それ以上に進みません。そこで重要なのは1)の不満というのは、その人の基準を満たすか/否かです。その人の基準が低いレベルならば、不満は生じません。

 不遜ながら、クラス全員が「分かった気になる」、クラスの6、7割が「分かる」レベルだったら「私」なら出来ます。しかし、私が目指したのはクラス全員が「分かる」ことなのです。これを実現するには『学び合い』しかないと思います。しかし、クラス全員が「分かった気になる」、クラスの6、7割が「分かる」レベルでも、普通の学校ならば十分に賞賛されます。

 若い方々は、経験も浅く、正直、テクニック的には未熟なことがあります。しかし、本気で全員が「分かる」ということを求めています。これは得難い!これが経験が5年もたてば、全員が「分かる」なんて無理、と思うようになってしまいます。もしくは、都合良く「分かっている」と思いこめるようになってしまいます。

 もう一つ、若い方々の強みがあります。それはネットワークです。思い出して下さい。新規採用時代、そして、その後数年は、学生時代のネットワークが生きています。ところが、現場の忙しさで、いつのまにか学生時代の関係は疎遠になるものです。結婚して、家庭を持ち、子どもを持つならば、いっそう疎遠になります。そうでしょ。私はそうでした。では、それに代わる職場のネットワークを生み出せるでしょうか?私の知る限り、「否」です。今の若い先生の罪ではなく、また、今の中堅教師の罪ではなく、教師集団の年齢構成に基づく原因から、学校現場でのネットワークは弱いものです。さらに言えば、勤務学校を超えたネットワークを持っている人は、本当に極々まれです。なんの志もなく、課題もなく、経験を重ねても、学校を超えたネットワークを組むなど、今の時代無理なんです。昔だったら、ノホホンとしている若手を、無理矢理でも自主的な研修のネットワークに引っ張れる中堅・ベテランがいました。では、今の時代、そのような中堅・ベテランに出会える可能性があるでしょうか?いや、少なくとも、そのような中堅・ベテランの知恵を学びなさい、と声をかけるひとがどれだけいるでしょうか?「今の若い教師は」と言う人はいます。でも、その若い教師も、自分が若かったときと同じで愚かである一方、有能でなどです!

 今、若い先生方で苦労している方がいらっしゃいます。その先生方も、1年間を乗り越えれば、次の年は格段に「うまく」生きることが出来ます。そして、苦労する1年目にしても、苦労するのはその先生方であって、子どもたちにとっては一斉指導を下回る可能性は殆どありません。だって、現状の一斉指導は酷すぎますから。来年になれば、また、苦労する若い先生が生まれるでしょう。私としては、苦労してもトライする先生を生まれるように努力します。しかし、その頃には昨年、苦労して1年を過ごした人を紹介することが出来ます。その1年生先輩からは、私は絶対伝えられない知恵を伝えることが出来ます。逆に、その年の新規採用者の苦労を聞くことによって、1年を過ごした人は自分を相対化して理解することが出来ます。つまり、『学び合い』の異学年が成立することが出来るのです。

 若い先生はすべからず『学び合い』にトライするべきだ、というような不遜な思いはありません。とにも、かくにも、若い方々は、年長者と繋がるべきです。縁あって『学び合い』と繋がったならば、私はその方々をサポートしたい。そして、より多様にネットワークを形成するべきことを伝えたい。だから、「教員経験5年未満の方は読んではいけません!?」という看板を下ろしました。

 今、私のゼミ生には、「しばらくは『学び合い』はやるな」とは言いません。新規採用の年から、うまく「やれ」と言っています。そして、一斉学習に見まがう『学び合い』があることを語ります。そして、学生さんが『学び合い』と対局と思われがちな某研修団体の学生向けの研修に参加することを奨励しています。そして、その学生さんが現場に出て独りぼっちにならないようなネットワーク構築に汗を流しています。その学生さんがネットワークに加わることによって、得るのは中堅・ベテランなのですから。

追伸 いつもは馬鹿話が殆どですが、久しぶりにゼミ生に暑苦しく語りました。あはははは。あ、○さんから、「先生のメモは長い!」と注意されそう。あはははは

[]怖いこと 17:41 怖いこと - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 怖いこと - 西川純のメモ 怖いこと - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私が今、一番恐れていることはなっつさんの19日の指摘です(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/a-peanut/20080619)。他ならない、私の自戒です。なっつさんの「『学び合い』が、一斉授業より優れているのは、百も承知です。けど、だからといって、『学び合い』を選択している人が一斉授業をしている人より偉いわけではありません。願うのはみんな一緒。生徒の幸せです。そして、先輩方には、学ぶべきところがいっぱいあります。」という言葉は、私の心に突き刺さります。「とても大事なこと(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20080423)」にも書いたとおりです。

 そして、過去のメモ(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20080210/1202639587)にも何度も書いたとおり、私がもっとも大事にしている教師の力量は以下の三つです。

1)子どもや親のせいにしない。確かに、それが原因なのかもしれないが、それを言ってはおしまい。

2)尊敬すべき、先輩、後輩を捜し、その人といっぱい雑談をする。見いだす方法は、子ども「たち」に聞けばいい。

3)まねられるところはまねる。まねられないところは、まねる必要はない。今の自分のままで、出来る授業はある。

 この2番目を偏狭な眼によって失うことを恐れます。

 一つ一つのクラス・学校は違います。そのことを一番知っているのは、数百キロ離れた私ではありません。その学校の先生です。それを忘れることを恐れます。そして、本来協働して実現すべき機会を失うことを恐れます。