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2009-02-06

[]同志 23:07 同志 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 同志 - 西川純のメモ 同志 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日は朝一番に佐賀の小学校に移動し、授業を観ました。レベルの高い『学び合い』です。その後の協議会でも、『学び合い』を学校の柱とする方向性が見えています。昨日、今日で、2校の小学校、2校の中学校を観ました。そして、それ以外の学校レベルの同志がいることが分かりました。そして、その学校の同志以外にも、初対面の同志の方々にいっぱい会いました。本当に、層の厚さにビックリします。

 直ちに飛行機で移動し、高知に着きました。そこで、多数の同志に合いました。ビックリです。そして、同志にいつも通り、志の高さの意味と、なすべきことを語り合いました。高知も変わります。

[]対話 23:07 対話 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 対話 - 西川純のメモ 対話 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 現在の手引き書の前は、仰々しく奥義書というものがありました。その最初には、何故、『学び合い』のノウハウを長い間書かなかった理由を書きました。理由は誤解が起こるからです。『学び合い』は考え方です。しかし、それを伝えることは困難です。具体的な方法を書けば、ノウハウ的に理解される。私は『学び合い』を誤解されることが怖かった。だから、長い間、ノウハウを書きませんでした。しかし、ある時から、誤解を生じることを理解した上で、ノウハウを書きました。それは、デメリットとメリットを比較したとき、メリットが大きいと判断しました。そして、手引き書の最初に考え方を書きました。そして、方法は方法に過ぎないことを何度も、何度も書きました。でも、誤解が生じることは予想していました。誤解する人が悪いのではありません。しょうがないのです。

 私はゼミ生に研究には3つのことが必要だと言います。一つは、資料を読むこと。二つは自分で考えること。三つは、人と語り合うこと。この三つのうちの一つでも欠ければ良い研究は出来ないと言います。

 この4日間だけでも、膨大な人から質問を受けました。それは課題の設定だけでも膨大です。そして、一人の人の質問だって、バリエーションは膨大です。一つのことを納得してもらうだけでも、複数のエピソードを交えた説明をしなければならないのです。さて、これを手引き書に書くとなるとどうなるでしょうか?気が遠くなるほどの量になります。現在だって百七十ページを超えます。その2倍でも足りないでしょう。そして、それだけの量の書いたとして、それを読んでくれる人がどれだけいるでしょう。本日も、手引き書の短縮版だけしか読んでいませんという方に合いました。でも、その方は問題なく実践しているんです。

 結局、本質的な解決には対話が必要なのです。その人の悩みの背景を聞き出し、その人の理解を深める説明を手探りで語ります。私は人からの質問に誠意を持って回答します。時間の関係で返答が短い場合もたまにはありますが、相手からの質問に返信しなかったことも、私から打ち切ったことも、一度たりともありません。聞かれたことに関して、誠意を持って回答しています。たとえ時間を費やしたアドバイスメールに返信がないという失礼な経験を山ほどしてもです。でも、それでも限界があります。

 結局、自分の頭で考えるしかありません。例えば、「課題設定はどうしたらいいのでしょうか?」という質問への本当の答えは、「分かりません。私はその場にいるわけではありませんから。『学び合い』の考え方で、自分の頭で考えて下さい。」というのが正しいです。私が出来るのは、その手がかりを与え、考え続ける手助けをするだけです。でも、そうであっても、私は質問には応えますし、文章を書きます。なぜなら、質問する方は同志であり、その同志が変わることによって救われる子どもが数万いると考えているからです。

 『学び合い』の考えは正しくとも、方法は影です。私の語る方法は方便に過ぎません。だって、例を挙げずに考え方だけを言えば、禅問答になってしまします。方法には一つの答えなどはありません。みんなとの対話の中で、その場の最適解を探りましょう。少なくとも、私はつきあいますよ。

[]アドバイス 07:44 アドバイス - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - アドバイス - 西川純のメモ アドバイス - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日のKyoさんの質問に応えます。まず、昨日のメモのコメントを読んで下さいね。

 もし、自分のクラス(私だったら西川研究室)の子どもから同じようなことを聞かれたら以下のように言うでしょうね。

 「あはははは、そんなこと私が分かるわけないよ。あなたがどのようにしたらいいか、それをわかるのはあなただけだよ。自分の頭で考えなさい。」

 と、一度は突き放すでしょうね。でも、それでは可愛そうです。第一、問題を個の問題としてとらえるのではなく、集団の問題としてとらえるのが我々の作法です。子どもは集団となったとき有能となります。

 そこで、自分のクラスの子どもを集めて、そのような悩みを受けたことを語ります。そして、それは一人の問題ではなく、みんなの問題であることを語るでしょう。そして、以下のように語るでしょう。(つまり、今、このようにしているようにです)

 「これは真面目に考えてくれるみんなの悩みだと思います。だから、みんなに語ります。みんなのためという高い志で物事を考えられるようになると、そのみんなの力を得ることが出来ます。たから得です。でも、その「得」を感じられないと歪みが生まれます。滅私奉公、自分はどうでも良いからみんなのため、というふうに考えて続けられるのは、せいぜい1ヶ月半程度です。それ以上になると馬鹿馬鹿しくなります。イライラすれば人に当たります。そんなのは自分にとってもみんなにとっても良いことじゃない。アドバイスです。

 人にはいろいろなレベルの望みがあります。個人的な望み、家族の望み、比較的狭い隣人の望み、自分の属している学校の望み、県・国・世界レベルの望み、などがあります。それらをばらばらに考えるとロスが多い。それらを関連づけるようにするといいんです。それが折り合いです。それが大人として生きるためには大事です。自分や家族のレベルの望みと、高度の望みが矛盾しそうになれば、それを関連づけ、加減して下さい。

 もう一つあります。それは、みんな、です。高度な望みを達成するためには、みんなでやるしかありません。決して自分一人で解決できるわけはない。みんなでやれば良いんです。私はみんなに期待しています。」

 と語るでしょうね。子どもに対してのアドバイスも、大人に対してのアドバイスも同じです。あはははは

追伸 まあ、西川研究室の場合だと、「わたしゃ○○を達成せよとは言いましたが、あなたが達成せよとは言ってはいませんよ」と嫌みったらしく、ニヤニヤ語るでしょうね。あはははは

[]教祖様 07:44 教祖様 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 教祖様 - 西川純のメモ 教祖様 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日の飲み会で、ある方と話したとき「教育に教祖様はいらない」ということで意気投合しました。

 教祖様が生まれるのは、関係する人が自分の頭で考えることを放棄するためです。あらゆることには、その背景となる考えがあります。例えば、私は「クラス全員のテストの点数、80点以上」という課題を例として挙げます。しかし、何度も書いているように課題は何でも良いんです。極論すれば「鼻くそをうまくほじれるようになる」でも良いんです。ただし、前提として、子どもたちにその課題の意味が理解できる(これは鼻くそ課題はクリアーできます)、そして、子どもや関係者(例えば保護者)に納得させることが出来る(こりゃ、鼻くそ課題ではかなり難しい)の二つが大事です。この考えが理解できていれば、「クラス全員のテストの点数、80点以上」をその場の状況に応じて変更できるんです。ただ、多くの人にわかりやすく、納得させやすい事例として「クラス全員のテストの点数、80点以上」を上げているに過ぎません。言うまでもなく、業者テストなんて鼻くそのほじりかたと同様に、その子の人生を決定するものではありません。

 教祖様が生まれる原因は、教祖様の言動に原因があります。

 例えば、1+1は2であるという数の体系を構築することは蓋然性が高く、汎用性も高いものです。だから、それは「そうだ!」と断言しても問題は少ないと思います。しかし、2桁の足し算の筆算で、どのようにやるかは多様です。それをたった一つの方法として強いるのは問題です。さらに、それに反抗することを許さなくなったら、教祖様です。まあ、健全な立場の対立は望ましいものです。しかし、対立する人の意見を封殺したり、組織から排斥したりしようとしたら、教祖様と言うよりファッショですね。まあ、『学び合い』に関しては、それが不可能になっています。だって、だれもネットで発言することは封殺できません。それに排斥しようにも、固定的な組織が全然無いんですから。あはははは

 まあ、教祖様になる人も悪い人ではないんです。詐欺師はいざ知らず、人は人の腹を見通しますので、悪い人は教祖様にはなりにくいはずです。ただ、どんな人も年をとります。年をとると、忠告できる人が、死んでいなくなるという大きな問題が生じます。年をとり、自分の言っていることを、何も考えずに従う人を取り込み、それ以外を排斥し始めたら衰退があります。科学という宗教の良いところは、それが相対的に少ないという点です(まあ、学派という教祖様はありますが)。そいうふうにならないためには、愛嬌が大事です。愛嬌がある人は、若い人からも、「優しく」注意されますから。

 ちなみに私は教祖様にはなりたくありません。だって、大抵の教祖様は迫害され、最後には刑死した人もいます。わたしゃ嫌だ。

 人は関係の生物です。学校だって、若手・中堅・ベテランがいます。若手は走り回り、中堅は頭を使い、ベテランはほほえみます。それが美しい職員室の関係です。それぞれのいずれになるかは絶対的な年齢や能力で決まるのではなく、相対的な関係の中で決まります。例えば、40代以上の先生ばかりの学校では、三十九才の先生は若手で、運動会では走り回らなければなりません。残念ながら、私は若手・中堅を兼ねるような位置にいます。そして、年間、2ヶ月ぐらいは講演のために家を空けなければなりません。そして、講演のために過激な発言をしなければならず、そして、その時、私をにらみつける人の視線に耐えねばなりません。私としては、教祖様にはなりたくないが、優秀な若手・ベテランにあふれる学校のベテランの立場になりたいと思います。つまり、物理的に汗をかくような仕事を殆ど何もしなくても物事が進みます。それでいて、ニコニコしているだけで、いい人に思われます。憧れます。あははははは

追伸 まあ、私が手をかざした壺や水晶玉が高値で売れて、最後まで警察に捕まらないならば、教祖様も良いですが、あははははは