■ [大事なこと]大同団結
仏教の全宗派が一堂に会し、同じお経を読経するという企画があったそうです。大方は般若心経を読経するということで合意がなされたのですが、一部が反対したため流れたそうです。これは仏教という宗教が、数学の世界での定義に基づく概念でないことを端的に表したものだと思います。
認知心理学のロッシュという人は族類似性という概念を提唱しています。それによれば、世の中の概念というのは単純な属性によって定義されているのではなく、複数の属性群によって定義されています。そして、それらを満たしているほど「それっぽい」と判断されるわけです。例えば「イス」を例にしましょう。四つ足であるイスもありますが、それ以外のイスもあります。座るということを目的としておらず、象徴としてあるイスもあります。おそらく世の中にある「イス」と分類されるものに共通する属性はありません。そんなもんです。でも、大部分の「イス」となれば共通する属性はあります。それに除外された「イス」を含む、大部分の「イス」の共通する属性はあります。
おそらく、最初に書いた例も、「お経」という一つのもので全体を統一しようとしたから頓挫したのだと思います。それを「礼法」は「律」や「仏像」や・・・の様々な面で共通できる宗派が集まる、そのようなものの全体として企画すれば可能だったのではないかと思います。
尊敬すべきある方が、『学び合い』を含む、様々な教育団体のリンクし教育の流れを変えようという志を持たれました。素晴らしい志です。ただし、私は「目標が一致しているならば、多様な方が パフォーマンスが高まります。が、目標が一致していないと、多様性が高まるとパフォーマンスは低くなります。「よい教育の実現」というレベルの目標だと、 よい教育とは何かでバラバラになります。なかなか難しいですけど、やる価値はあります!」と『学び合い』的なコメントをしました。その方から、「どうすればやれるでしょうか?」という至極当然の質問がきました。
私なりの応えです。昔だったら、「各団体のトップが連携協定を結んで・・・」というようなものが普通だと思います。でも、そんなことをやったら連携はとれないし、いいとこ連携した「ふり」が残るだけだと思います。でも、各団体のメンバーは族類似性を持っています。つまり、似ているところもあるけど、多様性もあります。だから、各団体全体でとなると無理がありますが、メンバー同士が交流し、協力することは十分に可能だと思います。おそらく、当面は向かう方向性は違うのですから、無理に共通する必要はないと思います。ただ、人として尊敬できればいいのではないでしょうか?具体的には、それぞれの会で、他の団体の会の案内を流し会う、参加し会う、それによって互いのメンバーが交流するということをやればいいのではないでしょうか?
追伸 私は頑固に『学び合い』の二つの考えを主張し続けるでしょう。そして、それに反している場合は『学び合い』ではないと主張しつつけるでしょう。でも、そんなことしとうとしまいと、そうでない”学び合い”は生まれます。その度合いは多様で、『学び合い』の人ともリンクはとれるでしょう。それが良いものか、つまらんものかは、様々な教師が、なによりも子どもがチェックすればいいのです。それによって、『学び合い』も私も成長できますから。あははは
なによりも多様な考えに触れることによって、より『学び合い』の考えが純化する可能性の方が高いと予想しています。『学び合い』は二百万年の生存競争に生き残ってきたのですから。ああははは
■ [大事なこと]木を見て森を見ない
この前、ゼミの学生に説明したことを、アップします。
『学び合い』が腑に落ちた先生は、あまり子どもに近づきません。従来型の先生から見ると「ボーッとたまに見ているだけ」のように見えます。従来型の先生は、コマネズミのように子どもたちの間を机間巡視し、子どものノートや会話を丹念に見よう聴こうとしています。たしかに、そのような姿に比べていると「ボーッと」しているように思えます。が、『学び合い』の先生から見ると、コマネズミのような先生は「何も見てはいないし、聴いてもいない」と思えます。『学び合い』の先生は、かつてはコマネズミを良しとしていたので、コマネズミのような先生を同情的に見られます。が、従来型の先生は『学び合い』の見方が分からないので批判的にしか見えないのでしょうね。
たとえばです。精神的な病を負っている人であれば、その兆候は体の様々なところに現れます。胃液が過剰に出て、胃粘膜が弱くなり、胃潰瘍になるかもしれません。睡眠不足になり、食欲がなくなったり、逆に、食欲が過剰になったりします。当然、血液のバランスは目中クチャになります。その結果、体中のありとあらゆる臓器が悲鳴を上げます。
そのような人の血液分析をして、足りない物質を点滴すれば直るでしょうか?胃カメラを飲み、カテーテルで潰瘍の部分を摘出すれば直るでしょうか?おそらく直らないでしょうね。それよりも、臓器ではなく、その人といっぱい話してあげることが大事なのではないでしょうか?そして、臓器ではなく、その人の悩みを解決する手助けをするべきではないでしょうか?もし、精神的な病を引き起こした原因が解決できたならば、その人の持つ自然治癒力によってありとあらゆる臓器がバランスよく治るのではないでしょうか?
このたとえ話で言えば、一人一人の子どもたちは臓器です。そして、人とは集団です。『学び合い』では、一人一人の子どもに現れる問題は、集団に起因していると考えます。もちろん、一人一人が原因そのものの場合もあるかもしれません。でも、それを解決できるとしたら、それは集団を作るしか根治の仕方はないと考えます。だから、集団を見ることを大事にします。
ボーッとしているようで、色々なところを見ます。例えば、子どもたちの作り出す小集団は固定的ではなく流動的だろうか?クラス全体の動きを、俯瞰している子どもはクラスの中で何割ぐらいだろうか?(サッカーで、絶えずグラウンド全体を俯瞰できる選手というのがあります、あれです)この数週間で見られなかった、あらたな組み合わせは生まれていないだろうか?子どもたちの会話は集団全体を意識しており、結果として心地よりざわめきだろうか?また、いつ、誰がやるかわからない、集団の動きを決定的に変えてしまう、一人の言動を見逃さずにいる。これらはみんな「ボーッと」集団を見るしか見とれません。これらのものは集団全体を見たときに初めて分かるもので、コマネズミのように視野の狭い個人を見ては絶対に見えません。こう書くと何か超能力者の話みたいですが、分かってみれば馬鹿馬鹿しいほど分かることです。例えば、「ルビンの壺」や「妻と義母」のだまし絵のように、見えない前は見えるはずはないと思えるのに、一度見えてしまえば、今までそれが見えなかったことが不思議に思えるほど見えるようになる、あれです(http://www.icoffice.co.jp/zukan/sh_design.htm)。また、別な説明ですが、印象派の点描画を30cmの距離で鑑賞したら、単なる点々の汚らしい集合にしか見えないでしょうね。
追伸 何かの事情で、個人に着目しなければならない状況に追い込まれると、集団が見えなくなり、個人が原因であり結果であるように思い込んでしまう負のスパイラルに陥ります。そのスパイラルに落ち込んでも解決策は見いだせず、集団に目を向けなければならないと思い直すには、私も一定時間かかります。