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2011-01-15

[]課題 08:55 課題 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 課題 - 西川純のメモ 課題 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 何度も書いたことですが、改めて。

 『学び合い』に取り組まれようとされるかたが、最初に気にされることの一つに「課題」があります。子どもが自主的に動いて1時間活動を続けられる課題は、とても練られた課題のように思われます。だって、今まで自分たちが練った課題だって、遊ぶ子はいましたし、ちんぷんかんぷんな子どもがいました。結果として、補足の説明や、叱咤激励をしなければならないのですから。

 多くの方は、より一層に練った課題が必要だと思われます。だから、難しいと思われます。しかし、『学び合い』における課題の難しさは、気にされている部分に関しては「とてつもなく簡単」であることを理解することが難しいのです。そんなに練らなくても、教科書の問題、市販のドリルを与えればいいのです。

 一方、『学び合い』特有の課題の難しさがあります。それは「一人も見捨てない」というところです。それが甘くなると、全ては駄目になります。一方、それがしっかりとしていさえしたら、先に述べた教科書の問題、市販のドリルレベルを「やりなさい」というレベルで十分OKです。何故でしょうか?

 一人も見捨てない、ということを押さえたら、教師のレベルで動く子どもが生まれるからです。その子「たち」が教師の与える単純な課題を、一人一人にあった課題に練ってくれるのです。例えば、「その問題を解く前に、とりあえずこの問題文のことを絵で描いてみなよ」とか「とりあえず、ゆっくりと読んでみたら。そこで分からない漢字があったら、教科書に線かいて。読み終わったら辞書引いて。それでも分からないならば、私が教えたあげるから」というような具合です。そして、集中力が途切れたときに、「やろうよ」という一言をします。これは強力です。なぜなら、子どもは教師の目は逃れられるが、子どもの目は逃れられないのは知っているからです。

 では、一人も見捨てない、という課題とは何でしょうか?まあ、テクニックとしてですが、名票を黒板に貼って出来た人が丸をつけるということによって誰が出来たか、出来ないかが分かりやすくするというのもあるでしょう。また、全員達成出来たらビー玉を瓶に入れるということによって動機付けをするのもあるでしょう。でも、それらはテクニックです。本当に大事なのは、一人も見捨てないという願いを持ち続ける、また、一人も見捨てないことが可能だという確信なのです。それが『学び合い』における課題の難しさです。

追伸 全員達成が定常的に出来る段階、つまり発展段階に移行したら、教師の教材の力量を最大限に生かした課題を与えるのはOKです。でも、我々の責務は、クラス全員に安心できる場を提供し、クラス全員に指導要領で定められたことを学ばせることです。クラス全員を達成することがまず第一だと思います。

[]簡単 08:55 簡単 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 簡単 - 西川純のメモ 簡単 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は、『学び合い』は簡単だ、と豪語します。そうすると、『学び合い』を知らない人からは「そんなバカな話はない。『学び合い』で学力向上、クラスづくりが出来るというのだったら、そんなに簡単なわけはない」と言われます。また、『学び合い』の同志からも、「簡単ではありません」という悲痛な訴えを受けることがあります。

 でも、そりゃ当たり前です。そんな簡単だったら、我々は何でお給料をいただけるのでしょうか?教師は専門職です。そんな簡単にできる仕事をしているわけではありません。でしょ?私が簡単と言っているのは、二つのことを前提にしているからです。

 第一に、「従来の授業よりは簡単」という相対的な意味です。

 第二に、「一人も見捨てない」ということを実現することを願っているならば、ということです。例えば、私の大学・大学院の授業は徹頭徹尾・純粋無垢の一斉指導です。私のマシンガントークというジェットコースターに乗せて、1時間を終わらせます。何故か?私が大学で講義していること、これは「全員が学ばなければならない。」とは思っていないからです。だって義務教育ではありませんから。そして、今の段階で、全ての人が分かるとも思いません。だってあまりにもラディカルですから。そして何よりも、それを学べないことによって、その子が学習者集団の中で辛い立場になることを予想できないからです。

 このような状態の場合、一斉指導は非常に楽です。私は般若心経を暗記していますが(葬式仏教の域を超えません)、あれを暗唱するとき頭は使いません。一度話し始めれば、何も考えずに次の言葉が出来ます。私の講義は、数年来、練りに練った内容です。講演会でも語った話です。ですので、何の準備もいらす、何も考えずに1時間を終わらせられます。非常に楽です。

 一方、西川ゼミの運営は徹頭徹尾『学び合い』です。なぜならば、それを学ぶことを求めている人たちだからです。そして、ゼミの集団維持には、共通の課題、それもとてつもなく高い課題が必要だからです。

 さて、以上の前提、すなわち一人も見捨てないという授業を実現するために必要な能力を必要としましょう。

 従来の指導の場合、以下の能力が必要です。

1) 東大に行くかもしれない子ども、そして、知的障害が強く疑われる子どもが混在する三十人にあった説明をする。(これが不可能であるのは心理学的にも証明されています。そして、心理学を引き出さなくとも常識で不可能だと分かります)

2) 三十人の子どもたちが何が分からず、何に悩んでいるかを、一瞥しただけで理解し、それに対して適切な支援が出来る。(上記と同様に不可能です)

3) 多様な興味・関心を持った子どもが一様に興味・関心を持つような話を出来る。(それが出来るならば、教師を辞めて芸能界に出た方が良い。おそらく、明石家さんまや所ジョージでも出来ないことをやれるのだから、億を稼げる)

4) 三十人の子どもから、その人に従うことを納得してもらう。(そんなことが出来るならば、政界に出て日本国首相を目指した方が良い。ちなみに、全員が認めた首相を私は知りませんが・・・、あなたならば出来るのでしょうね)

 以上が求められる能力です。結論から言えば、「不可能」なのです。現状の先生方は、とにかく研鑽を深めればそれが可能かもしれないと思っています。あたかも難行苦行をしているインドの行者がそれによって解脱できると思っているように、より一層の苦行を求めます。でも、不可能です。もちろん、才能に恵まれた天才的な一部の教師は、上記に近いことが出来ます。でも、それは才能に恵まれた一部の教師であり、凡夫は一生かかっても無理です。さらに言えば、天才教師であっても、全員に対しては上記を達成することは出来ません。

 さて、『学び合い』の難しさとは何でしょうか?

1)現状を見つめなければなりません。『学び合い』は子どもの[真]の姿が非常に見えやすい。だから、それと対峙しなければならない。今までの授業だったら、自分のクラスはハッピーのように見えるはずです。実は、ちょいと休み時間の様子を見れば分かるのですが、それを避けることが出来ます。でも、『学び合い』はクラスの闇の部分が非常に見えやすくなります。それを1時間見続けるというのは辛い。でも、見えるからこそ、改善がある。これを踏ん張るのは大変です。もちろん、『学び合い』をやめればその辛さから逃れることが出来る。でも、闇の中の子どもは辛いままです。

2)説明しなければなりません。みんなとの横並びでしたら、何も説明しなくても大丈夫です。保護者からのクレームが来ても、不登校が生じても・・・、横並びだったら「災難だわね」と流してくれます。ところが人と違うことをしているならば、何故しているかを説明しなければなりません。問題が生じた場合、その原因は何か、どのようにそれを乗り越えるかを説明しなければなりません。でも、これは常に教師がやらねばならないことだと私は思います。

3)自分が何を教えているかを考えなければなりません。教師はみんな授業を小中高大で16年間も受けています。その結果、授業の流し方は理解しているのです。例えば、中学生に授業のまねごとをさせてください。おそらく教育実習生レベルの授業は直ぐに出来ます。ところが、その授業は何を目的としているのか、それは理解していない場合は多いです。例えば、「説明できる」という言葉で曖昧にしているものが、何を意味しているかをハッキリとはしていません。今までの授業の場合、それをハッキリさせなくても、「総合的な判断」という分かったようでわけの分からん状態でも流すことが出来ます。ところが『学び合い』では、それを子どもに言わなければなりません。ハッキリと言語化しなければならないのです。それが大変です。でも、これも、本来、やるべきことだと思います。これを曖昧にしているならば、授業の程度は、その程度です。

 結論から言えば、「一人も見捨てない」ということを願わず、それなりに1時間を流すだけなら今までの授業の方が「楽」です。でも、「一人も見捨てない」ということを願うならば、今までの授業では不可能です。でも、『学び合い』ならば可能です。不可能と可能なのですから、当然、『学び合い』の方が「楽」です。

追伸 『学び合い』を実践する方が多くなれば、『学び合い』の困難点の多くは解消されます。例えば、前の担任がクラスをつくっているのですから、「闇」をみることは少なくなるでしょう。周りもやっているのですから、説明を求められなくなるでしょう。そして、どのような課題を与えればいいかは同僚から教えてもらえるし、『学び合い』で育った子が教師になれば、流し方が分かります。そうなれば、「一人も見捨てない」という覚悟を必ずしも持たない人にも「それなり」の『学び合い』が出来ます。でも、そのようになるためには「一人も見捨てない」覚悟を持った教師で現状を越えなければならないのです。