■ [大事なこと]シンプル
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私の提案している『学び合い』はものすごくシンプルです。何故か?
一人も見捨てたくないから。だから、子どもの多様性を前提としています。子どもという子どもはいません。
教師の方法を複雑にすれば、一部の子ども(もしかしたら大多数の子ども)にとってフィットするかもしれません。しかし、一部の子どもにはフィットしなくなります。だからシンプルなのです。子どもが方法を複雑にすればいい。教師が方法を例示するのはOKです。しかし、それを選択するか、否かは子ども主体になるべきです。
じゃあ、私が本で書いてあるシンプルな方法が最善な方法か?そんなことありません。事実、西川ゼミでは私が書いてある方法を使いません。というか、いわゆるテクニックは何もありません。達成すべき目標を語り、学生が活躍できる環境を保証すること。そのために、政治を行い、予算を獲得することをやっています。つまり、本で書いてあるテクニックは「心」さえあれば不要です。が、あまりにも抽象的で分かりづらい、だから、安定した結果を出せるテクニックを提案しています。ただし、これは子どもにとってのテクニックではなく、実践する教師が安心するためのテクニックの方が圧倒的に多いのです。
もう一つの方向で進化させることが出来ます。それは子どもたちに与える課題です。その課題が抽象的であり、難しいとき、結果は安定します。具体的でありすぎれば子どもの自由度を奪います。簡単であれば、手を抜くし、エゴイズムが出てきます。教師の力量とは、その抽象的で、難しい課題を子ども集団がやろうと思うような語りを出来ること、それを可能とする心があることです。
以上、超難解な文章でした。
追伸 上記は難解ですが、校長と教諭との関係に置き換えれば自明になります。
■ [大事なこと]政治
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若い人が己の考えを正しいと思い、それを主張することは当然です。現状に不満を持ち、他者を非難することは当然です。そのような人がいるから健全でいられます。不易なものを守るためには、革新を内在しなければなりません。革新を内在しなければ、不易なものは緩慢に衰退し、破滅します。
ただ、全ての革新が次の時代に繋がるわけではありません。その多くはごく短期間に滅亡します。では、滅亡するか、繋がるか。それに関して私の考えがあります。思い出話です。
私は理科コースに採用され、理科教育学の助手、助教授となりました。理科コースでは理科教育学の地位は相対的に低いものでした。ところが、学生のニーズは高く、社会的要請も理科教育を求めていました。しかし、当時の理科コースにおいては、純科学の成果を一部簡易化した教材を開発することこそが理科教育学であり、学習者理解は理科教育学ではないと思われていました。
私は徹底的に理科コースの人と議論しました。徹底的に議論につきあってくれる人がいました。しかし、もともとのベースが違います。その人が「西川さん、あなたは理科コースを出て行って、あなたの理想とするべき組織を作るしかないよ」と言われました。当時の私は38歳の助教授に過ぎません。当然、その人は「そんなの出来ないでしょ。だったら、理科コースの論理に従いなさい」という意味で語ったのだと思います。
しかし、私はその人の言葉通りの行動をしました。当時の橋本内閣は教員養成系学部の定員削減を各大学に求めました。時の学長、副学長はその対応策を求めていました。私のアイディアをその削減案に対応する形で整理し、時の学長、副学長にアイディアを提案しました。そして採用されました。
私をかわいがってくれた3人の中堅教授と、私と同い年の助教授の5人でチームを組んで新コースを立ち上げました。
新コースは成功しました。私が思ったように、理科を学びたい人たちは新コースに流れました。
しかし、しばらくして不満を感じました。そして、同じように時の学長(先に書いた新コースの立ち上げを一緒にした教授の一人)に直訴して現教職大学院が生まれました。
私が望んだこと、それは大多数の人が望んだものではありません。そして、その時、私の所属した組織においては圧倒的大多数が望んだことではありません。しかし、私が望んだことを理解してくれた人がいました。それには、大学の意思決定をするような人もいて、私と一緒になって新組織に参加してくれる人もいて、サポートしてくれる事務の方もいました。だから形になりました。
長々と書きましたが、ようはこうです。
若い人が何かをなそうとしたとき、それが通るか否かは、大多数に受け入れられるか否かではありません。みんなが受け入れられるもの、それは現状維持しかありえません。しかし、革新の中には一部の人、それも力のある人に受け入れられるものであるならば、形になることも出来ます。
そのような人を引きつけられないとしたならば、結局、独りよがりであり、考え方が浅いものであることを意味していると思います。ただ、引きつけられない人は、自分の考えの浅さを理解せず、世の不合理を嘆き、憤るだけでしょう。仕方がありません。上記の仕組みを教えてもらえなかったか、教えてもらっても理解しようとしなかったのですから。
いずれにせよ。結局、結果が全てを明らかにします。
■ [お誘い]越後『学び合い』の会
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10月7日、8日に上越で越後『学び合い』の会を開きます。授業公開や分科会があり、盛りだくさんです。私や小野島校長の講演もあります。もう一つあります。我がゼミ生です。今の時代に、『学び合い』を学ぶために2年間という時間と、学費を払う、愛すべき、面白い、生物を見に来て下さい。自慢のゼミ生です。http://bit.ly/2bhUsR4
■ [嬉しい]『学び合い』スタートアップ
![『学び合い』スタートアップ - 西川純のメモ のブックマークコメント 『学び合い』スタートアップ - 西川純のメモ のブックマークコメント](http://r.hatena.ne.jp/images/popup.gif)
『学び合い』スタートアップが第11刷りとなります。累計2万4000部です。教育書としてはベストセラーと言っていいと思います。天国のジーンへも伝わると思います。
■ [大事なこと]違い
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学び合いか否かは子ども達が関わることを教師が求め、子どもが関わっているか否かで判断できます。
『学び合い』か否かは子ども達に一人も見捨てないことを教師が求め、子ども達が一人も見捨てないか否かで判断できます。
全く異質です。
■ [大事なこと]無能
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キツいことを書きます。
司馬遼太郎は国盗り物語の中で「君主は無能こそ悪である」と述べています。責任あるものは、無能は罪なのです。
私は三十年以上前の高校教師だったときの己の無能さを責め続けています。知らなかった、ではすまないのです。知る努力をしなかった、知って行動しなかった、それは責任を負ったものにとっては「悪」です。
■ [お誘い]茨城の会
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10月1日に茨城県石岡市で『学び合い』の会が開かれます。お誘いします。http://kokucheese.com/event/index/421545/
■ [大事なこと]学校観
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「多様な人と折り合いをつけ自らの課題を解決すること」ができる子どもを育てることが学校教育の目的であると語るのが『学び合い』の学校観です。このたった24文字にどれほどの情報量があるか。
例えば、多様と一言に言いますが、二十年以上の『学び合い』研究の中でそれは深化しています。最初は健常児、それがグレーゾーンの子どもも含め、特別支援学級の子どもも含め、ありとあらゆるタイプの知的障害、情緒障害を含めています。そして、現在では、保護者集団、地域集団さえも包含しています。
しかし、多くの場合は、無意識に一部の子どもを除外しています。現状の授業では、そうしない限り心を病んでしまうからです。そして、知的な障害を持つ子ども以外全員が難しい課題を解けたとき、思わず「みんなできたね」と言ってしまうのです。心は言葉に現れ、ボディランゲージに現れます。
折り合いという言葉も意味深い。仲良くなることを求めていません。そして、全ての人と
つきあえることも求めていないのです。あくまでも集団の中での凝縮力が大事なのです。これは良い職場の人間関係と同じです。腹の中でどうおもっているか、また、実際に話さない人が職場にいてもいいのです。集団としてパフォーマンスを高められる行動を一人一人が出来ればいい。
自らの課題を解決、という言葉も意味深い。なぜなら、これは「徳」ではなく「得」で動くべきだと語っているのです。だから、子どもに損得勘定で語ることが出来ます。おそらく、多くの教師がやっていないことだし、それはいけないことだと思っていることだと思います。しかし、そうしない限り、中長期にわたって行動を維持することは出来ません。滅私奉公出来るのはせいぜい1ヶ月ぐらいです。
ざっと考えても24文字の言葉には以上のものが含まれています。そして、それ以上のものを膨大な学術論文が支えているのです。さらに言えば、諸般の事情で論文に出来ない学術デーからもです(これは主に口伝で伝えています)。
しかし、このことを理解したらOKという分けではありません。以上のものを伝えたゼミ生でも卒業・修了後に維持できる人ばかりではありません。それは「一人も見捨てず」がどれほど深く刻まれているかであり、それは、私の教育では無く、その当人が過去にどのような苦しい経験をしたかに依存しています。そして、それが有ったとしても、一人も見捨てずを「自分一人」で維持できるのは困難です。私の管理下から離れたとき、置かれた状況で苦しい思いをして、自らを救うために子ども達を見捨てることを合理化することはゼミ生のみならず非難されるべきものでは無いのかもしれません。
結局、全体を変える方が、局所的な問題解決より、可能性が高いというセオリー通りの結論になります。
■ [大事なこと]根幹
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私は『学び合い』のテクニックは完璧でもないし、絶対でもないと思っています。しかし、学校観、子ども観は完璧で絶対だと思います。なぜなら、私にとって「一人も見捨てず」は絶対であり、それを可能とすると「したら」学校観と子ども観は完璧だからです。
いい授業をしたい、この「いい」は多様です。もし、「一人も見捨てず」以外を最上位に位置づけるならば、学校観、子ども観は絶対でもないし完璧でもない。ましてやテクニックは完璧でもなく、絶対でもない。
もし、「一人も見捨てず」が絶対である人であるならば、『学び合い』のテクニックをつまみ食いは出来ます。他のテクニックと併用できます。もともと授業能力のある「ごく一部」の方はそれをうまく出来ます。が、「一人も見捨てず」を突き詰めるならば、学校観と子ども観にいたり、その結果として超シンプルな『学び合い』になるはずです。
しかし、「一人も見捨てず」が絶対でないならば、つまみ食いをして併用すればするほど、『学び合い』の強力さを失います。なぜなら、『学び合い』の驚異的な成果の根幹は子どもに「一人も見捨てず」と語ることから生じるのです。それによって、2割の子どもが、「みんなと多様な方法を柔軟にやりつづける」からです。そして、その2割は教師の行動を中長期に観察し、求めている言葉にぶれがあるかないかを判断しているからです。2割の子どもが「ぶれ」を感じたら動きません。結局、教師一人が主に頑張り、教師が主に光る授業になります。そして、従来型の価値観から賞賛される教師になるのです。
大部分の教師は、頭の中が「一人も見捨てず」で満ちあふれる経験をしていない。また経験をしたとしても、それが頭から消えない人は少数です。でも、います。フォーラムにおける1時間は、その人たちへ、その人になり得る人たちへのメッセージでした。
その人たちにしか分からないメッセージです。
『学び合い』を学び、その良さを分かった人は二通りに変容します。その違いは「一人も見捨てず」の一点で、自身を見返し続けられるか否かです。
その人たちが全員である必要はありません。そんなの不自然ですし、不健全です。しかし、2割程度はいて欲しいと願います。そうしたら日本中の子どもが見捨てられない。
追伸 もし、「一人も見捨てず」に関して、学校観、子ども観、そして、それに一対一対応できる『学び合い』のテクニック以上のものがあるならば、私はその瞬間にそれにひれ伏します。しかし、それはあり得ないと理論的に、かつ実証データから確信しているので、『学び合い』の学校観・子ども観が絶対であり、完璧であると思っています。そして、それを乗り越えるとしたら、現在の『学び合い』が成長した形しかあり得ないと思っています。