■ [大事なこと]残るもの
大学院生の時、私の論文が学会誌に掲載されることが決まった日の夜、散歩をしました。星を見ながら、おのれが死んだ後もどこかの図書館に自分の書いた論文が残ることをジワジワと感じ、感激しました。若い私は、そんなことを思ったこともありません。1年後、自分の書いた論文が外国の学術誌に掲載されたことを知りました。私が死んだ後も、世界中の主要な図書館に私の論文が残ることを感じました。
芸人は一瞬、一瞬が勝負です。自分のパフォーマンスが後に残ること以上に、今が勝負です。結果として、そのパフォーマンスが後に残るかもしれません。でも、意識は「今」です。そして、現場における研修会の99%は講演する側も、受講する側も、「今」を求めています。
さて、教師はどちらでしょうか?
私の知る限り、教育実践の99%以上は後者です。今日の授業をどうするかです。結果として、子どもの人生に影響を与えるかもしれないし、与えたいと思っていますが、それを必須とは思っていないと思います。模擬時授業や研究授業がわかりやすい例です。そこで子ども成長が扱われるのは、配布される資料の中の学習指導要領の記述程度です。
我々は芸人でしょうか?いいえ違います。我々は子どもに人の道を教え諭す教諭です。
我々に芸人のテクニックは必要でしょうか?確かに私は使っています。それは一発勝負の講演会です。おそらく、模擬授業や飛び込み授業では、そのテクニックがあると無いとでは天と地ほどの差があります。でも、一般の教師が必要でしょうか?必要ありません。テクニックがあっても、無くとも、子どもは教師の人を見ます。少なくとも4週間以上、週に数回会うレベルの子どもの2割はそれを見極めます。そして、その他の子どもは、その子の言うことを信じます。
その2割の子どもが、この人に「従おう」と思うのはその人の芸人のテクニックではありません。分かりやすい授業でもありません。だって中の下に合わせた授業なんてもともと分かっていますから。では、何が決めてか?
『学び合い』では、それは人の道を明らかにすることだと思います。そして、それはテストの点数と矛盾しません。少なくとも、下げることはありません。
■ [う~ん]ニーズ
ある教育関係の学会で若い大学院生の発表を聞いていました。いかにも研究のための研究です。そこにいた現職派遣院生が発表の後に、その教材は絶対に学校現場では使えないことを「柔らかく」指摘しました。しかし、その大学院生はキョトンとした顔をして、それが何か問題があるのかと応えました。その反応に現職派遣院生はキョトンとして言葉を失いました。
これには少し解説が必要です。
例えば、ウイルス学の学会でエイズウイルスの遺伝子についての発表があったとします。しかし、その研究はエイズ治療に役に立ちません。そこでそこに参加した医者が、その研究成果はエイズ治療に役に立ちませんと指摘したとします。おそらく発表者はキョトンとした顔をして、それが何か問題があるのかと応えるでしょう。そして、その言葉を聞いた医者はキョトンとして言葉を失うでしょう。
つまり同じ「教育」という言葉でも、学会で使われる意味と学校現場で使われる意味は違います。
ウイルス学の存在する意義はあります。それと同じようにウイルスを学校現場に適用する研究が必要であり、事実あります。ところが、教育学において、後者が殆ど無いに等しいのが現状です。端的な例は、大学研究者の中で現場教師向けの本を書く人は1%もいないでしょう。しかたがありません、今の大学においてそのようなものは評価にならないからです。私は助教授時代から現場教師向けの本を書いていましたが、それらは教授昇任のポイントにはなりません。ま、趣味程度の扱いです。私の教授昇任で評価されたのは学術論文と学会賞です。だから大学研究者はそこにエネルギーを費やします。
犯人は誰か?若い頃は直ぐに言えました。今は、言えません。みんな悪気は無いのです。