■ [大事なこと]次

この頃、本を本当に読まなくなりました。他の仕事が忙しい、老眼になったという理由もあるのですが、もっとも大きな理由は別にあります。それは、今後の教育学研究において大事になるものは何であるかがハッキリしているが、それを今から手を出すには私の能力と年齢が低く、短いのです。だから、今の私が出来る範囲内のものを吸収し、そして、それをアウトプットすることに力を注いでいる。
でも、ハッキリと私には今後の教育学研究の未来が見える。いや、その方向に転身しない限り、じり貧になることは自明です。だから、このことは若い人に知って欲しい。そして「そんなもんかな~」と心にとめて欲しい。
今後の教育を考える上で、大事な視点が二つあると思います。一つは、「個人が個人として主張する時代になった」ということと「社会の変化が早く、かつ、継続的に変化し続ける」ということだと思います。
個人が個人として主張する時代、それに対応しているのが『学び合い』です。つまり、今までは「子ども」というおおざっぱな扱いで良かったのが、一人一人の子どもと保護者が自己主張をし始めたのです。さらに、子どもたちが学校や教師よりも良質な教育を提供するツールを多様に持ち始め、どんどん安価になり、多様性を持ったのです。だから、学校にそのような子どもや保護者をコントロールする力はありません。
私が若い頃は心理学を武器に論文をどんどん書きました。心理学は「人間」の平均的な心理傾向を明らかにします。また、いくつかのタイプ別の心理傾向を明らかにします。ところが、個人レベルのことに関してはお手上げです。だから、集団としてどのように管理するかが重要になるでしょう。『学び合い』はある到達点に達したと思います。今後、さらに発展するとしたら、社会心理学や経営学や経済学等を利用する必要があるでしょう。(ま、ミクロ分析に走って役に立たない研究は生まれるでしょうが・・・)。
「社会の変化が早く、かつ、継続的に変化し続ける」ですが、『学び合い』以降に私がやりたいことです。この最初の段階だったら私でも手をつけられるからです。
社会の変化が早い、ということは明治維新でもありました。ただ、今後は明治維新並みの変化がずっと続くと思っています。社会の有り様は人口構成によって決まるとドラッカーは看破していますが、私もそう思います。日本の人口構成は諸外国が経験したことの無いことです。そして、その傾向は数十年間変わりません。おそらく海外からの移民問題も真剣に検討されます。そうなったら日本というアイデンティティが問われます。技術革新も早くなりました。私の時代には新日鉄が花形でした、今となっては笑い話です。でも、それが十年単位で起こるでしょう。つまり、一人の人間が一生涯の中で全く異質な仕事を経験する時代になるかもしれないのです。
変化が激しいとき、集団は多様性を高めることが安定性を高めます。メンバーが多様であり、かつ、ネットワークを組めば乗り越えられます。例えば、今はどんな大学でも英語が必須になっています。しかし、機械翻訳が本学的になったとき、それがどれほどの意味があるのか分かりません。でも、そうならないかもしれない。だったら、日本の子どもたちの全て、その貴重な時間とエネルギーを英語に強いることには危険性があります。まあ、2割程度の子どもがそれなりに英語が使え、5%ぐらいが堪能であれば良いと思います。これは、ありとあらゆる教科も同じです。であれば、現状の殆どの子どもが普通科高校に進学するというシステムが間違っています。
では、我々日本人が全員獲得すべき能力は何でしょうか?私は日本人としてのアイデンティティだと思います。もちろん単純な愛国心とは異なります。我々は仲間だという意識を持つことです。その仲間意識が結果的に愛国心に繋がるかもしれませんが、国のために個を捨てよではなく、個を生かすために国があって欲しいと多くの個が思うようなアイデンティティだと思います。
それはコミュニケーションだと思います。そしてその中心は国語だと思います。国語こそ日本のアイデンティティだと思います。ただし、今の国語とは別な姿を想定しています。それは生の人と繋がる国語です。誰に書いているの分からないような作文、日常生活では絶対に使わないような「つけたしで」と言わせる論理的な説明、一生涯つかわないであろう「あり、おり、はべり」を覚えさせる、そんな国語ではありません。
今でも新鮮に読める方丈記や花伝書を現代文で読ませたい。子どもたちが地域や年齢の違う人と話せて、伝わる文章を書けるようになり、それによって実際にすばらしい成果を上げるようなコミュニケーションを経験させたい。
子どもたちがどのような人、どのような組織と一緒になってプロジェクトを組むことによって、どのような成長をしたかという事例が集積され整理される。それが教材開発になるのです。
あ~、書けば書くほど、指は早く動き、夢広がる。
が、現状は、『学び合い』の初心者を増やすことです。ただ、私の頭の中にはそんな妄想がうごめいています。
では、教員はどうあるべきか?特に、今、20代、30代の人はどうあるべきか?それは「個人が個人として主張する時代になった」ということと「社会の変化が早く、かつ、継続的に変化し続ける」を理解し、その中で自分がどうなるべきかを考えるのです。一つ確かなことが言えます。多様な人と繋がることです。学校種を超え、教科を超え、学校という村を越え、そのネットワークが力になります。そのようなネットワークを持つためには、学校種を超え、教科を超え、学校という村を越えた志を持つべきなのです。
このまま書くと、終わりが無いので、とりあえずここで。
■ [大事なこと]ハート

昨日は臨床教科教育学会がありました。そこで考えたこと3つ書きます。
私は学力的に最底辺の学校の教師として教員人生を始めました。その後、大学に異動しました。大学に異動してからは論文を書きまくりました。私はおそらく教科教育学で一番論文を書いた研究者です。そして、数多くの学会から賞をいただきました。しかし、私の心は満たされなかった。なぜならば、自分の書いた論文が本当の子どもの役に立つとは思えなかったからです。学術論文を書くためには本当の子どもを捨てて、「子ども」という抽象的な存在として分析します。そこから出てくる結果はスッキリとしたものですが、私が高校で教えた生の子どもから離れてしまいます。
抽象的な研究の意味を否定するわけではありません。基礎的な研究は必要です。しかし、生の子どものためにという気持ちを失えば、限りなく意味を失ってしまいます。
以前ある学会で発表する博士課程の若い学生さんがいました。しかし、その発表は実際の教育に移すことは不可能としか思えなかったのです。そこで、私の研究室の院生さん(現職院生さん)が、礼儀正しくその研究をどのように実際の教育に生かすのかと聞きました。ところがその学生さんはキョトンとしていました。何故、そんなことを聞くのかという目で質問者を見ているのです。まるで、整数論の研究者に「それが実生活にどう役に立つのか?」と聞いているような反応です。その学生さん、そして数年後には教員養成系学部の教師になる人には、生の子どもの姿はありません。おそらく、とにかく就職するための業績を書いているのです。質問した院生さんはものすごく憤慨しました。私も愕然としました。教育学は社会科学であって数学ではないのです。
私はそんな研究が嫌だった。おそらく私は臨床医になりたいのに、病理研究をしている研究者だったのでしょう。
その学生さんは自ら開発したシステムを使っている教師や子どもと関わることはないのでしょう。あくまでも画面に映るプログラムのバグ取りをしているだけなのでと思います。しかし、人のことも言えません。私もそうです。先行研究に基づいて設計したアンケートを研究協力者に送り、その結果をコンピュータに入力し、統計分析していました。アンケート用紙に書いている子どもの名前に何ら興味を持ちませんでした。そしてそれだからこそ大量に論文を生産しつつけることが出来ました。
それがやがて嫌で嫌でしょうがなくなったのです。論文を書けと言われれば、月に2本ぐらいの論文は書こうと思えばかけます。論文には書く作法があり、それに従えば、学会誌に掲載されるレベルにすることはそれほど困難ではありません。しかし、二百弱ある論文をそのような論文でさらに増やしても何の意味もありません。
だから、生の子どもに密着する研究を始めました。直に子どもに接するならば、その子のことを思うはずです。何とかしたいと思うはずです。そうなれば、「子ども」というようなくくり方で分析することに満足が出来ません。一人一人の子どものことをしっかりと記述したくなります。しかし、既存の学会ではそれは不可能なのです。何故なら、基本的に学会誌は8ページぐらいが上限ですから。ところが、子どもの姿を記述するならばもっと必要なのです。
また、論文の評価は「傷が無い」で評価されるのでは無く、傷があってもその研究の可能性を評価すべきなのです。クーンの言う通常科学では傷の有無でいい。しかし、パラダイムシフトをしつつある科学では、そんなことは出来ません。
そんな悩みと願いを持つ人たちと一緒に臨床教科教育学会を立ち上げました。
■ [大事なこと]斜陽

この前、ある先生が本学大学院の現職院生さんに、「大学院入学前に、自分の教育実践のために学会誌の論文を読んだことある人?」と聞きました。だれも手を上げませんでした。次ぎに、「大学院入学前に、自分の教育実践のために、学術研究を引用した本を読んだことがある人?」と聞くと、ある程度の人が手を上げました。
学術研究を引用した本を読んでいる人がいるなんて、さすが本学の現職院生さんのレベルが高いと思います。しかし、そのレベルの人たちも、学会誌は読まないのです。
つまり、結論的に言えば、現場の先生が読むような本にしない限り、大学でどんな研究をしたとしても現実の教育には「まったく」影響が無いのです。そして、日本中の教育学研究者の中で現場教師が読むような本を書く人は1%もいません。
余裕があるときはいいです。しかし、今、教員養成系学部・大学は逆風の中です。文科省も厳しく大学を評価するでしょう。教員養成系学部・大学院しかない学問があります。例えば、国語科教育学、理科教育法は教育職員免許法や同施行令には規定されていません。あるのは教育職員免許法施行規則の付則にあるぐらいです。つまり省令の一番下ランクにあるだけです。つまり、文科省の担当者がその表現法をちょっと変えて、省内のコンセンサスが得られたらば、日本中の教科教育担当者の首は飛ぶのです。
昔だったら笑い話でしょうが、今は笑い話では無い。
厳しい財政状況の中で、財務省は厳しく査定をしてきます。それを文部科学省が守るためにはエビデンスが必要なのに、それが無いのです。
例えば、大学で物理学を2単位を学ぶことが中学校教師にとって重要だという実証的な研究を私は知りません。せいぜい「中学校で物理を教えるならばあたりまえだろ」というきわめて素人的な論理です。もし、それを示すデータを出して下さい、と言われたら出せません。もちろん、いくつかはありますが、いずれも物理大好きな人の中でしか成り立たない論理です。
また、大学の授業を改訂するとなったとき、「それには反対だ!」と本気になって学校現場が支援してくれそうですか?私はそう思いません。もし、「師範大学で行われていたような板書法をちゃんと教えるべきだ、そのために既存の単位を精選する」と理屈をつけたとき、それでも反対する現場の人がどれだけいるでしょうか?
私は教科教育研究者の一人として、とてもそれが怖いのです。たしかに大学の至らないところもあります。しかし、だからといって大括りで捨てられたときのデメリットの方が大きい。早く、多くの人が気づいて欲しいと願います。