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2014-09-13

[]部活 22:04 部活 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 部活 - 西川純のメモ 部活 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』をより多くの人に分かっていただくために、色々な表現をします。その一つに例を挙げます。しかし、例は本体と一致しているところもありますが、一致していないところもあります。批判のための、批判をされる方は、そこをとやかく言います。ま、レトリックは分かる人のためのものであり、分からない人、正確には分かりたくない人には無効です。

 その中で、分かりたい人の中にも、私が部活を例に挙げると、そりゃ違うのでは無いかと言われる方がいます。(つまり、批判する人は自信たっぷりに批判します)

 その方々が言われるのは、クラスと違って部活はやりたい子どもが集まっている集団だろう、という論理です。が、失礼ながら私には噴飯物です。一般の部活で、やりたい、と思っている子どもはどれだけでしょうか?そりゃ、入部当初はそうかもしれません。でも、入部から半年たった段階での様子はどうですか?

 やろう!と思っている子どもは2割。やめたいと思っている子どもが2割。中間層が6割。ではないですか?そして、顧問が心を悩ますのはやめたいと思っている2割です。

 さて、クラスとどこがちがうのでしょうか?

[]説明 22:04 説明 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 説明 - 西川純のメモ 説明 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』を学術から実践に重心を移行した時、学校現場の先生方の疑問に対応する研究をやりました。その蓄積は膨大で、普通の教師が思いつくレベルのことに関しては全て対応できると思います。ただ、そのうちに気づきました。分かってみれば当たり前のことです。人は分かりたくないということは、どんな客観的なデータ、どんな正当な論理であっても分かりません。だから、その様な人を説得する努力を放棄しました。非生産的だから。一方、

分かっている人、分かろうという人に対して、私は何が出来るかを考えるようになりました。

 理学の世界にいる時は、議論が感情的になることは殆ど無かった。あったとしても、それを恥じる文化はありましたし、少なくとも感情的になっていない装いはしなければならないと思う文化はありました。が、教育の世界にいて、感情論が直ぐに暴発するのを何度も見て、「あ、違うんだ」ということを学びました。

 大の大人が、個人特定できる相手を、客観的なデータに基づかないものを根拠にして否定するという大胆な行為が頻発する世界なんですね。

[]心強い 20:01 心強い - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 心強い - 西川純のメモ 心強い - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今日、家の近くの本屋に行きました。教育の棚に行くと、『学び合い』スタートブック、『学び合い』ステップアップ、『学び合い』ジャンプアップの3冊が並んでいる横に、三崎さんの本と、阿部さんと水落さんの本が並んでいました。なんか心強く感じました。

[]迷惑メール 07:22 迷惑メール - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 迷惑メール - 西川純のメモ 迷惑メール - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私のところには毎日、毎日、多くの相談メールが来ます。私はそれらに対して誠実に対応することを自分に課しています。それが毎日、数時間を要するとも、優先順を高く対応しています。一度たりとも不誠実であったことはありません。キッパリ

 ただし、例外があります。「お前のカーさんデベソ」レベルの言動をする人に対して、その段階で切ります。心の中では「お前のカーさんデベソ」レベルの気持ちであっても、表現が大人のルールに則っているならばちゃんと対応します。

 もう一つのタイプがあります。突然、相談メールを送りつけるのですが、その表現が、お客様相談窓口へのメールのようなのです。つまり、見ず知らずの人に相談する態度ではありません。そして、その様な人の共通点として、私が返信しても、「返信有り難うございました」のレスが無いのです。そして、数ヶ月後に、また同じようなメールをします。このようなタイプの人が年間に一人、二人います。本日、ある方を迷惑メールに分類し消去する設定をしました。

 『学び合い』は聖人君主の博愛主義ではありません。凡夫がずっと続けられる生存戦略です。そして、私は凡夫に過ぎません。

[]アドバイス 06:25 アドバイス - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - アドバイス - 西川純のメモ アドバイス - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昨日のゼミでのことです。

 ことしゼミに入ったゼミ生が『学び合い』の授業の最初の語りを今度することになりました。現職派遣院生ですが、『学び合い』の語りは自分でやるのははじめてです。アドバイスを求められました。私のアドバイスは2つだけです。第一は、「本当に、目の前の子ども全員の幸せを願う」ことです。第二は、話は3分程度にまとめる。たった二つです。でも、その二つだけでOKです。

 『学び合い』の授業でどのように語り、振る舞えば良いかは私の本に書いた通りです。しかし、『学び合い』を学んだ人だったら、「本当に、目の前の子ども全員の幸せを願うこと」だけでOKなのです。だって、子どもはその人が繰り出すテクニックや教材や指導法によって、その人を信頼し、従うかを決めるわけではありません。子どもは教師の人柄を見ているのです。では、どの時間にそれを判断しているか。授業中の全ての時間、一分一秒の例外も無くです。

 『学び合い』を始める時、どのように語れば良いかを心配します。私の本でも事例を紹介しますし、私のHPは日本全国の先生の最初の語りの音声ファイルを公開しています。でも、本当に大事なのは願いなのです。願いは必ず行動に出ます。集団の2割は言動に基づき、人柄を判断するのを長けています。その子たちが情報交換したら正確に判断します。だから、「本当に、目の前の子ども全員の幸せを願う」だけで十分なのです。

 ただ、願いが強いと、教師根性から長く語ってしまいます。そこで3分以内というアドバイスがあるのです。

[]みんな本に書いてある 06:25 みんな本に書いてある - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - みんな本に書いてある - 西川純のメモ みんな本に書いてある - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ゼミに所属して1年間ぐらいのゼミ生たちの質問は、私が本に書いていることばかりです。当然です。『学び合い』は既に多くの人が実践し、その人たちのお悩みは私のところに集まり、私はアドバイスします。だから、私の頭の中には膨大な事例が入っています。この情報に関しては、他の人とは二桁違うと自負しています。それらは見事に同じです。『学び合い』はもの凄くシンプルです。学校段階によらず、教科によりません。ホモサピエンスの本能に由来しています。だから、実践して起こることは非常に安定しているからです。そして、それに対する対応策もシンプルです。おそらく、『学び合い』を実践して困ることは全て出尽くしています。そして、その対応策も出尽くしています。だから、教師の『学び合い』に関しては『学び合い』ステップアップという一冊で書き尽くせますし、合同『学び合い』に関しては『学び合い』ジャンプアップという一冊で書き尽くせます。教科や学校段階や子どものタイプによって変わるものだったら考えられないことだと思います。

 ゼミに所属して1年間ぐらいのゼミ生の質問も本に書いていることばかりなのは当然です。そこで、ゼミ生の質問に応えた後に、笑いながら「本に書いてあるけどね」と言いました。そうすると、あるゼミ生が「そう言われると質問できなくなります」と言いました。そこで慌てて補足しました。本に書いてあり、読んでいても、それがすくに分かるわけではありません。そこに書いていることを自分の問題場面に置き換えるためには経験が必要です。理論が血肉を伴うには、経験が必要なのです。だから分からなくて悩んでも当然で、それに対して具体的な事例のアドバイスが必要なのです。

 だから、世に溢れている教育本の圧倒的大多数は、直ぐ使える料理本のようなものです。でも、現状の教師の忙しさからは致し方ないものです。しかし、事例をいくら覚えても理論が無ければ覚えていられません。そして、自分の持っていない問題場面では手も足も出ません。その様な時に理論が必要です。理論があれば、どんな問題場面でも、対応策を考えることが出来ます。現状の教育本の多くが残念なのは、その理論が整理され明示されていない点です。そのため、いくらそれを覚えても理論が構築できないのです。横に広がるだけで、積み上がらない。

 ちなみに『学び合い』だけができる、オールマイティの対応策があります。普通、問題が起こると、教師は一人で悩み、一人で解決策を考え、それを一律に子どもたちに課します。でも、子どもは多様で流動的です。だから見栄えは良くなりますが、本質的な解決にはなりません。結局、本人たちがその問題を解決しようと思わなければならないのです。『学び合い』の解決策は、子どもに率直に問題点を語り、解決する意味を語り、まかせ、評価する、というものです。ただ、これが本当に機能するには「一人も見捨てない」ということが徳ではなく得であることを、集団の2割は確信し、6割は確信した2割の子どもが正しいだろうと確信する必要があります。そのためには「多様な人と折り合いを付けて自らの課題を解決する能力の獲得が学校教育の目的である。」という学校観が分かっていないと駄目です。なぜなら、それが出来ていないと、毎時間のことで一喜一憂してしまい、中長期で解決することが出来ません。とりあえず見栄えの良いようにしたいという誘惑に負けてしまいます。そして、「子どもは有能である」という子ども観が必要になります。もちろん「子どもは有能である」と言う教師は少なくありません。しかし、理論が無い。『学び合い』は個々人のレベルで言えば、愚かな子どもも、性格的にゆがんだ子どももいると多くの教師が思っているように思っています。しかし、同時にそれと同じ数だけ、賢明で優しい子どももいることを知っています。そして、その子を中心とした集団をつくれば、教師を超える有能性を発揮することを知っています。

 『学び合い』を批判する人の中に、患者が100人集まっても医者がいなければ駄目だ、という論を立てる人がいます。その方々が誤っているのは、現状の子どもが何を悩んでいるかということです。現状の子どもが悩んでいることの圧倒的大多数は子どもでも解決出来ることです。先の医者・患者の例で言えば、患者の圧倒的大多数は「バランスの良い食事と十分な睡眠」で直るのです。問題は、それをやり続けるのが大変なのです。そして、それをやり続ける方法は周りの人からの声がけなのです。つまり、医者よりも周りの患者の声がけが有効です。

 という理論がないと「子どもは有能である」という言葉が空虚になってしまいます。ちなみに上記に関して、『学び合い』は実証的データで保証し、それらは学術論文にまとめられています。その点が、『学び合い』の独自性です。