■ [大事なこと]評価
地方大学は地方のエリートを養成しなければなりません。しかし、それ様の講義をどれだけやっているでしょうか?
教員養成系大学は授業の出来る教師を養成しなければなりません。しかし、それ様の講義をどれだけやっているでしょうか?
やっていますが、小中高の「言語活動の重視」と同レベルです。論理は同じです。基礎的・基本的なものが大事、だから、まず基礎的・基本的なものを押さえる。応用はその後。しかし、基礎的・基本的なものばかりになり、応用は申し訳程度。
結局は応用を教えられないから、何故なら自分が教えてもらっていないから。だから、基礎的・基本的が大事と連呼する。応用から入り、それによって必要な基礎・基本が分かり、応用と基礎・基本を相互に連関させながら学ぶ、そんなことは可能です。就職してからの学びは全てそれです。その方がホモサピエンスの自然な学び方です。学校教育でも、少なくとも大学の研究室ではその様に学びます。何故なら、大学の研究室は知を生産しなければなりません。だから就職後の自然な学びにならざるを得ない。学びのための学びになってしまう。
この現状を変えるにはどうしたらいいか?
大学の教員評価システムを変えることです。例えば、地方大学の場合は地元の企業、公共団体における委員が教授昇任の必須要件にしたら劇的に変わるでしょう。ゼミ生が地元企業にどれだけ就職するかで研究費を大幅に変えることもあります。
同様に教員養成系大学の場合は、教員向けの図書を発行し、それが2刷り以上になることを教科専門においても教授昇任の必須要件にしたら劇的に変わるでしょう。ゼミ生が教員にどれだけ就職するかで研究費を大幅に変えることもありえます。
当然、「そんなところに勤められるか」と出る人はいるでしょう。でも、上記にフィットする人が地方大学、教員養成系大学に残ります。ま、上記のようなことを大学自身が自主的にやるとは思えません。お上が上記で評価しない限り変わらないでしょう。
従って、地方エリートや実践的教員の養成が組織的に行われず、意識的な教員の全員に頼ってしまいます。
追伸 私は上越教育大学の最年少記録で教授に昇任しました。その際、評価対象となったのは学術論文や学会賞のみです。教員向けの図書や雑誌論文、講演は「全く」評価の対象となっていません。履歴書にそれは書かれますが、「頑張っているね」と言われる程度で、昇任を決めるのは学術研究のみです。だから、学術研究だけをする教員養成系大学の教員がいるのは当然です。それが評価システムにフィットした生き方ですから。
■ [大事なこと]業績
論文を書けない研究者(?)が大学にいます。話すと、学識の深さを感じる人もいます。でも、業績がない。何故か?
この年になると分かります。その人はインプットするのが好きなのです。映画ファンの圧倒的大多数は映画を楽しみますが、映画を作ろうと思って見る人はません。学問は理解するのは大変ですが、ある程度分かると面白くなります。私の数学・物理はそんな感じでした。きら星のごとき天才が明らかにしたことを追体験すると、自分が天才になったように思えます。その天才をフォローするだけでも人生は短すぎる。だから、それを鑑賞するだけで楽しいし、そして、人生を埋めるだけの時間はある。
昔の大学はのんきでした。知を生産せず、知をフォローするだけでもいきられたのだと思います。でも、旧帝国大学の人でもそんな生き方を許す余裕はない。
文系廃止でいきり立っている方の主張は知の生産者の香りはしないのです。知の生産者だったら、文科省が何を言ってもせせら笑えます。だって、自分の知の生産を必要としている人が多方面にいることを知っているから。だから文科省が何を言っても自分は大丈夫と思っているから冷静に分析できる。そして、自分の方向性は攻撃の対象では無いと思っているから。攻撃の対象は誰かかがわかり、その攻撃は致し方ないと思っているから。