■ [大事なこと]折り合い
我々は子ども達に「多様な人と折り合う」ことの重要性を語っています。ところが、無理解な人と折り合うことは嫌がります。ときに折り合えず、ぶつかる人もいるでしょう。
ご安心あれ。私も無理解な人と折り合うことは大嫌いです。しかし、あまりぶつかりません。何故でしょうか?それは無理解な人と関わらないからです。
私は上越教育大学に勤めてから25年間、戸北先生というボスの庇護にいました。戸北先生は徳のある方で、周りの人と上手くつきあえます。戸北先生がものを言えば、話が通ります。かなり無理があっても、「戸北先生がおっしゃるならば」ということで通ります。まあ、そのためには、日頃から色々なところで人のために汗をかき続けている方でした。
戸北先生の専門はフランスの理科教育の比較教育学です。私の場合は認知心理学を用いた教科教育学です。普通の学会での関係だったら犬猿の仲です。が、我々の関係は非常に良好です。私は戸北先生の専門のことを知りません。おそらく戸北先生も私の専門を理解していなかったと思います。でも、互いに、「いいことやっているんだよな~」と思っていました。
じゃあ、なんで良好な関係があったかと言えば、同じ仕事をコンビでこなすことが多かったのです。戸北先生が問題を抱え、私がアイディアを考え、戸北先生がそれを政治的に通し、私がそれを実行するという関係でした。私はかなり有能な部下だったと自負しています。
また、私の学内政治における立場は、学生の利害を守ること、それが自分の利害と一致するということでぶれがありません。そして、利害を守る方法は、学生に情報を出来るだけ与え、学生が選択できる権利を持てるようにするとい方向です。その考え方は戸北先生も同じです。
『学び合い』をやっているか否かで人は自分を判断しません。ようは仕事が出来て、周りの人の戦力になればいいのです。そして、子どものためというレベルで一致すればいい。
もちろん、職場には一緒に仕事をしたくない人がいるでしょう。子どものためという考え方のレベルで一致しない人がいるでしょう。どうしたらいいでしょうか?それは、そういう人と折り合いをつけられる戸北先生みたいな人と繋がればいいのです。その人の影に隠れていればいいのです。そもそも、今の段階で『学び合い』を推進しようとするような人の中には人と折り合いをつけるのが嫌な人がいます(私のように)。だって、人と折り合いをつけることを第一優先する人だったら、そもそも『学び合い』なんかしません。だから、『学び合い』を実践していない人こそ、繋がるべきなのです。
実は、子どもも同じです。全ての子どもが全ての子どもと繋がれるなんて不自然です。でも、繋がりを0にすることは折り合いをつけることではありません。どうすればいいか、自分と相性が悪い子とは、その子と繋がれる子と繋がればいいのです。それが無理のない折り合いの付け方です。
■ [お誘い]出版予定
11月は出版する本はありませんが、12月と1月に出版される本に関して予告します。
12月に出る本は以下の三つです。
学陽書房 激変する大学受験
私としては初めての保護者向け本です。保守的な学校を動かすには外圧が必要です。是非、出版したら保護者に紹介して下さい。アクティブ・ラーニングが他人事の教師は少なくありません。しかし、保護者にとっては我が事です。もちろん読む保護者は限られています。しかし、味方にすると頼もしく、敵にすると手強い保護者です。
明治図書 学び続ける教師になるためのガイドブック(プロジェクト編)
上越教育大学教職大学院がどのように学校現場に関わっているかを紹介しています。理想的な学術と実践の往還の姿を紹介します。ゼミ生が執筆します。
東洋館 アクティブ・ラーニング時代のキャリア教育入門
今後の社会においてはキャリア教育がもの凄く大事になります。キャリア教育によって子ども達の人生が決まると断言していいと思います。今後の雇用社会との関連しながらキャリア教育を説明しています。類書とは全く異次元のことを書いていると思います。
1月に出る本は以下の二つです。
明治図書 サバイバル・アクティブ・ラーニング入門
既に出しているアクティブ・ラーニングはエリートとエリートを目指す子どものためにアクティブ・ラーニングを解説しています。この本は9割以上のその他の子どものためのアクティブ・ラーニングを解説しています。アクティブ・ラーニングとは子どもの生き死にを決めていることを書いています。かなりショッキングな内容ですが、事実です。実は、ちょっとでも統計データを見ている人ならばごくごく常識的なことばかりです。しかし、教師は知らなすぎます。だから、脳天気に「教材研究が大事だ」レベルの情報が駆け巡っています。厳しい現実を直視し、教え子の命を守って欲しいと願います。このレベルのことを知った上で、な~んちゃってアクティブ・ラーニングをする人は、子どもを殺していると同じです。
明治図書 アクティブ・ラーニング時代の教室ルールづくり入門
中国史を見れば、最初は生活に苦しむ農民が蜂起します。しかし、それらは組織だっていないので正規軍によって潰されます。しかし、やがて旧体制においてのエリートが農民を指導すると革命は成功します。
中学校を参観すると、「危ういな」と思います。今は、成績下位層が教師に反抗しています。しかし、成績上位層が教師に反抗したら学校は対抗する術はありません。強面で子どもをコントロールできる時代は終わりです。これからは民主主義を理解し、かつ、教師より有効な教育ツールを持っている成績上位層を納得させることが出来る教師にならなければなりません。それを書きました。
なお、その後も、続々と出版予定です。乞うご期待。
■ [大事なこと]定義
私は「教師のもっとも正しい定義は、「自分が出来ないことを人にやれと求める職業」だと思っている。もし、教師が自分の出来るレベルのことだけを求めたとしたら、どんど退化してしまうからね。あはははは」とゼミ生に言います。
ふと気づきました。もう一つの定義がありました。
「学校で得た知識・技能が額面通りに役立つ唯一の職業」
■ [大事なこと]家畜
家畜とは人間のために特定の形質に特殊化されています。そのため自然状態での生存は困難になります。家畜化が進み特殊化が進めば、自然状態では生き残れません。もし、その家畜に価値がなくなったら育てなくなります。殺処分にすることはないでしょう。もしかしたら野山に離すかもしれません。しかし、生き残れないでしょう。家畜には生きる権利はあるかもしれません、しかし生かされる義務を負っている人はいないのです。
研究者も特殊化が進んでいます。しかし、その研究者の研究が価値を失えば上記と同じです。研究者が研究する権利はありますが、研究者が研究できるようにする義務を社会は負っていないのです。そのことを理解できない大学人は少なくないですね。自らの研究のマーケティングが出来れば、自らの研究の命脈を伸ばすことが出来るのに。残念です。
大学の昇進に全く関係ないことを十分に理解していましたが、1999年に単著の教師用図書を出版しました。教科教育学という学問は究めて脆弱な学問です。何故ならば、その根拠は「教育職員免許法施行規則」という省令(つまり、国会審議が必要なく文科省がなんとでも決められる規則)の別表から「教科教育法に関する科目」が消えた瞬間に無くなる学問なのです。学内政治に関わり始め、そのことに気づいたときは愕然としました。
1999年当時の私はあと三十年弱は働かなければなりません。身を守るためには、学術の業績以外に自らを必要とするユーザーが必要であることを感じました。その直感は正しかったと思います。