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2017-12-17

[]一人も見捨てない 05:36 一人も見捨てない - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 一人も見捨てない - 西川純のメモ 一人も見捨てない - 西川純のメモ のブックマークコメント

 以前書いたことを、昨日、私に質問した孫弟子のために再び書きます。

 長文です。『学び合い』の上級者向けの話ですが、出来るだけ分かりやすく書きます。もしかしたら、初心者に誤解を受けるかもしれませんが、書きます。

 『学び合い』はもの凄くシンプルです。学校観も子ども観も短い文章で表せます。そして、「一人も見捨てず」はたった7文字です。が、これらの言葉がどれほどの深みを持つかは、ギリギリの状態に追い込まれない限り分からないものです。

 例えば「一人も見捨てず」は、愛であり、暖かい言葉です。まあ、殆どの場合はそのレベルでOKです。しかし、ギリギリの場合でも「一人も見捨てず」を徹し、『学び合い』のセオリー通りに行動するには、「一人も見捨てず」は愛ではなく損得であり、暖かさではなく冷静な計算に基づくものであることを理解しなければなりません。それを理解していないならば、子どもにちゃんと語れません。

 大抵のクラスの場合、クラスのみんなが「一人も見捨てず」を願い、それなりの行動をすれば問題は解決できます。知的な障害がある子の場合、その子なりの課題を与えればOKです。毎日学ぶものを絶対的なものとは考えず、三十年後、四十年後の幸せを考えれば学校観で考えられます。

 それで乗り越えられない子も、希にですが、確かにいます。

 我々は一斉指導において集団が崩壊する過程を分析しました。崩壊の過程を簡単に記述すれば、以下の通りです。

 集団の中にいる相対的に能力の低い子のために、集団自体のパフォーマンスが下がります。最初のうちは、相対的に能力の高い子がサポートします。しかし、やがて、やってられなくなるのです。最初は遠回しな嫌みからはじまり、直接的な嫌みになり、やがて能力の低い子を作業に関わらせなくします。こうなると能力の低い子はいたたまれなくなり、その班から出ます。そうなれば能力の低い子どもいなくなるのですから、残った子どもはハッピーになります。しかし、そうなりません。能力の高い子以外の子ども「も」他の班に行きます。つまり、その班は能力の高い子どもだけになるのです。

 何故でしょう。実は中間層の子どもは成績上位層の子どもの行動をじっと見ているのです。そして、成績下位層の子どもがいなくなると、次は「自分」に矛先が行くのではないかと思うので逃げるのです。

 ところが、最後までハッピーに終わる班もいます。どこが違うかと言えば、能力の高い子が能力の低い子を最後までサポートします。だから、ひずみが生まれないのです。

 さて、ここまでを読むと能力の高い子の違いのようです。

 違います。その子ども達をよく知っている人が行った調査です。みんな「いい子」なのです。違いは、中間層の子どもです。最後まで上位層の子どもがサポートしている班は、中間層の子ども「も」サポートしているのです。ところが、排斥する班は、上位層の子ども「だけが」サポートしているのです。違いは、みんなが支えているか、一部のメンバーが支えているかなのです。

 このあたりは「理科だから出来る言語活動」(東洋館)をご覧下さい。

 この事実が分かって、それが大事だということがゼミ文化として根付いた頃です。ある学生が我がゼミに入りました。詳しくは書きません。ただ、私が高校教師として暴走族、オール1の子ども達を教えましたが、それに比べると異次元に大変な学生です。「良い/悪い」が分からない学生です。

 その学生も見捨てたくないとゼミ生集団は必死になりました。私がそこまでやる必要は無いと言いましたが、「西川ゼミは一人も見捨てないゼミです」とゼミ生は言い張るのです。私も、仲間を排斥する集団がどうなるかを先の研究で知っていたので、それを受け入れました。しかし、ゼミ生がどんどん自分たちを追い詰めていることが分かります。そこで、「見捨てたくない」というゼミ生の意見を拒否し、「私の判断で決める」と伝家の宝刀を抜きました。私が大学教員になってから、というより、教師になってから唯一の事例ですが、私の意志で私の管理下からその学生を排除しました。具体的にはそのゼミ生が嫌がっているのですが、強制的に、そのゼミ生を受け入れてくれる別教員のゼミに異動しました。

 次の年度です。私は我がゼミが崩壊することを覚悟しました。

 ところが、崩壊しませんでした。

 分かってみれば当然です。問題の学生を支えるために、ゼミ生がみんなで支えたからです。だから、ゼミ生はゼミ生集団を「安易に切り捨てない集団である」ことを確信したのです。

 つまり、「一人も見捨てない」より大事なのは「一人も見捨てないを諦めない」であり、ギリギリのことろでは「一人も見捨てないを安易に諦めない」なのです。

 では、諦めない程度はどの程度なのでしょうか?

 それは私には分かるわけありません。

 それは自らの心に恥じない程度です。それも、聖人君主ではなく、凡人として許せる程度なのです。これは管理者である教師には判断出来ません。

 さて、以上は学生の立ち位置の話です。では、教師の立ち位置はどうしたらいいでしょうか?

 一番大事なのは、知らないことです。知れば、管理者としての立場が守れません。子どもと同じ立ち位置に立ってしまいます。そうなれば、子どもと同じように迷います。しかし、子どもにとって必要なのは、自分たちと同じように迷う大人ではありません。自分たちが迷ってもぶれない大人が必要なのです。しかし、教師も人の子です。知ればぶれる。だから、知らない方がいいのです。

 では、知らんぷりなのでしょうか?

 違います。

 キリスト教の聖書に、百匹の羊を持つ羊飼いの例があります。神は一匹の羊が見つからなくなると九十九匹の羊を野原に残して探すそうです。しかし、これは神だから出来ることです。我々がそうすれば、野原に残した九十九匹がオオカミに食べられてしまいます。では、一人も見捨てずとは何か、それは個に拘らず、個に拘る集団づくりに拘るということです。

 私は一人一人のゼミ生を愛しています。色々と言われるであろう西川を選んでくれた。それだけで愛するに値します。しかし、私は私の限界を知っています。それを知らなかった高校教師時代、結局何も出来ず、我が身をさいなみ続けていたことを忘れません。

 だから、短期で解決できることであれば、ありとあらゆることをします。しかし、それが中長期に関わることであるならば、集団の問題であると考えます。そして、その集団を守ることに専念します。

 ウエットな気持ちは忘れません。しかし、それに溺れても何も生み出せず、より多くの子どもを奈落に突き落とすことを忘れません。熱き思いと、冷静な頭。そのバランスは辛いものです。

 以上が「一人も見捨てず」の本当の意味です。

 多くの実践者が、この事を分からず、愛と暖かさだけで「一人も見捨てず」を感じられるような社会を生み出したいと、私はもがいています。無様に。

 このレベルのことを、「『学び合い』の手引き・ルーツ&考え方編」、「『学び合い』の手引き・アクティブな授業づくり改革編」、「汎用的能力をつけるアクティブ・ラーニング入門」に書きました。