■ [嬉しい]異次元
今日は長者中学校でのお仕事です。
長者中学校の子どもたちをお借りしてゼミ生の飛び込み授業。100%安心しながら見ています。今日のポイントは2時間目。3学年とも体育です。体育館でバレーの『学び合い』をしている一方で、他の2学年は保健体育です。おそらく、『学び合い』の同志が見ても「????」と思うかもしれません。
私が嬉しかったこと。
これで国語、算数・数学、社会、理科、英語の座学の異教科『学び合い』ではなく実技教科の実技すらもいっしょに『学び合い』得ることを証明しました。座学の『学び合い』を終わった学年がバレーボールの練習のサポートに入っている。あははははは。
そして、それ以上に嬉しかったこと。このような挑戦的な試みを自らやろうとすること。
この仲間たちを守り、子どもたちを守るために何が出来るのか?考えます。
■ [大事なこと]セオリー
ネット上では様々な意見が飛び交う。当然、ご批判も。
ネットの超初心者の時は、議論すればわかり合える、少なくともよって立つ前提の違いが分かると思っていました。そして、初期の段階は少なくともそうでした。しかし、『学び合い』が知られるようになるに従って、そうでなくなりました。論点を整理しようとしても、論点があちらにこちらにずらされてしまう。大人げない表現をする。感情的になる。等々。
あるとき気づきました。この人たちは議論をしたいのではなく、論破したいのだと言うことを。非生産的です。そして関わらないことにしました。私が関わらなくても、意味あるご批判ならば、仲間が伝えてくれます。
セオリー通りです。集団を賛成2割、中間6割、反対2割にイメージします。反対する2割をいじくらず、賛成する2割を固め、6割に共感される結果を出す。アーリーマジョリティを引きつければ、黒白は決します。
『学び合い』と学び合いの違いが分からない人が批判する。ま、当然です。
個人として全ての人と学び合う必要はありません。無理です。
一人も見捨てないという意味は、個人として全ての人を見捨てないことではありません。無理です。
集団として学び合い、集団として見捨てないのです。個人としては学び合わなくても、見捨てたとしても、それはありえることで自然です。
このあたりが分からない。人が学び合い、見捨てないのは道徳の徳によるものではなく、損得の得によるものです。従って、個人的に得にならない人と学び合わず、見捨てるのは自然です。ただし、集団としては『学び合い』、集団としては見捨てないことを堅持することが得なのです。
昨日、ゼミ生に「賢い御方」、「愚かな御方」、「賢い敵」、「愚かな敵」のありがたい順序を聞かれました。その順番は「賢い御方」、「愚かな敵」、「賢い敵」、「愚かな御方」と応えました。愚かな敵はその愚かさによって中間層を引きつけてくれます。賢い敵は無意味な攻撃、下品な攻撃はせず、取引が出来ます。怖いのは愚かな御方です。
分かりたくない人に分からせようとするのは非生産的です。クラスにおいて反発する子どもをいじくると同じように非生産的です。そんなことをするぐらいだったら、分かろうとする人に情報を発信しましょう。そして、賢くなりましょう。結果を出しましょう。『学び合い』ならばセオリー通りにやれば結果は出ます。それは「簡単で確実に伸びる学力向上テクニック入門」に書いたとおりです。セオリー通りのことをやってください。我流はダメです。少なくとも結果を出している人は我流もありえますが、結果を出していないならば根幹の部分を理解しておらず、初心者であるのです。セオリー通りのことをしましょう。
ネット上でご批判の頻度が上昇しつつあります。潮目なのでしょう。賢く対応しましょう。