■ [大事なこと]誠実
私は誠実であろうと思っています。
日本中から来るメール、FB、ツイッタの真面目なアクションに誠実に応えます。
複雑な場合はZoomなどの、テレビ電話で対応します。
上越においでいただければ、ゼミ生を含めて対応します。
私は家族の時間を犠牲にしません。でも、色々な方に対して誠実であろうと思っています。これを約二十年以上続けています。
あえて問います。私が不誠実だったことあったでしょうか?私は断言します。少なくない人が不誠実であっても、私は誠実だった。それは多くの人が認めてくれると思います。私は、家族に迷惑のかからない範囲で、つまり、ずっと続けられるレベルで誠実であり続けたと。
追伸 理由は簡単です。不誠実な人の末路をよく知っていますから。
■ [大事なこと]逃げられる
『ヒトは「いじめ」をやめられない』(小学館新書)に書いてあるように固定的で、同じものを分け合っている集団ではイジメは必然です。中には自殺に追い込まれる事例は避けられません。どんな対策をしても。でもね。もんだいは、固定的で、同じものを分け合わなければいい。流動的で各人が別々なものを求める集団にはイジメは起こりません。生物は無駄なことはしませんから。
思い出してください。
小学校、中学校、高等学校、多かれ少なかれ、イジメに近いものはあったと思います。でも、大学でありましたか?無いですよね。固定的な集団がないからです。一人一人が同じものを分け合わないからです。じゃ、大学生ではイジメはないのでしょうか?あります。部活はあります。固定的で、同じものを分け合うからです。
だから、いじめ対策は、クラスを解体し、価値観を多様にすることです。
解体するのが無理ならば、合同クラス、異学年クラスを一部でも入れればいい。
中卒より高卒、高卒より大卒、同じ高校・大学ならば偏差値の高い方がいい、という価値観を潰さなければ。
うちのゼミ生はもちろん、他ゼミの学生に聞きます。「イジメは撲滅出来るか?」と。正直な学生は全員、無理と言います。次に、「イジメが撲滅が無理と思っている皆さんに撲滅は出来るか?」と問います。学生は全員「無理」と応えます。それから、虐められる苦しさを語ります。まあ、学生さんはみんな知っています。「だから、みなさんが知るべきはイジメ撲滅は無理という理屈ではなく、イジメ撲滅が可能という理論と実践論です。それが信じられなくても、あなたは信じなければならない。」と語ります。
この語りをし始めると、異常にオーラを発します。ま、分からない人には暑苦しいだけですが。
自然ではイジメは起こりません。起こるのは動物園の猿山です。http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20020603/1173057769
■ [お誘い]栃木の会
6月28日に栃木市で『学び合い』の会が開かれます。お誘いします。https://kokucheese.com/s/event/index/526801/
【詳細】
基本的に毎月最後の金曜日夜、栃木市立栃木中央小学校地域交流室にて、「みんながわかる」「一人も見捨てない」ことを目指した学級づくり、授業づくりについての勉強会や実践報告会、お悩み相談の場を設けます。その後はファミレスで自由に語り合います。第一部のみ、第二部からの御参加でも大丈夫です。
※6月の定例会は、29日(金)です。
第一部 19時~21時 栃木市立栃木中央小学校地域交流室(栃木県栃木市入舟町13-3)
駐車場は東武百貨店栃木市役所店駐車場を御利用ください(栃木県栃木市万町9-25)
第二部 21時~ 栃木市内のファミレス(デニーズ)
■ [大事なこと]難攻不落
私が書いていることの大部分は現行法規・学習指導要領の中でやれることばかりです。
例えば、公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律(いわゆる定数法)で定めているのは、子どもの数から算出される教員の数を定めているのです。ですが、その数の中で、どのような教科の教員を雇うかは校長の裁量です。理論的な話しですが、もし、ちゃんと教育委員会に説明できるならば、全員が英語の学校も可能です(極論ですが)。
どの法規を見ても、クラスの明確な定義はありません。学習指導要領の学習が成立しているならば、教科・学年を混在した50人、100人を対象とした授業も可能です。
教科書を使わなければならないと学校教育法34条に書かれていますが、どれだけ使うかは決まっていないのです。だから、教科書を資料と使いながら、携帯の動画で勉強することもありなのです。高木貞治の解析学概論を読んでいる中学生が、教科書を使って同級生に教えていいのです。
もちろん、全ては学校長の同意があってです。また、教育委員会の同意があってです。でも、教育委員会も法律違反に関しては命令が出来ますが、法律違反でなければ、命令は出来ません。
職業高校のプロパーの科目はかなり自由度が高い。だから、今すぐにでもドイツ型デュアルシステムも可能です。
やろうと思えば、私が書いていることは可能です。でも、そんなこと出来ないと思い込んでいる人を説得することは私には出来ません。お上が「特区的」に積極的にそのような運用を認めたら、と思います。そこで結果を出す。
追伸 ビックリするでしょ。でも、日本の教育法規の最高権威と、県教委の担当経験舎に聞いたら、こともなげに上記のような運用が出来ることを教えられたとき、私はビックリしました。
■ [大事なこと]イジメ
『ヒトは「いじめ」をやめられない』(小学館新書)を読みました。筋が通っているし、読みやすい本です。しかし、私は「いじめ」をやめられると思っています。どこが違うか、著者は現状のクラス、職場を前提にしています。ところが、私はそれとは違った集団を考えています。
固定的で、同じものを分け合う集団の場合は、いじめは起こるでしょう。しかし、流動的で、各々が違ったものを求める集団には「いじめ」が生じる必然性はありません。無駄ですから。
ようは集団の在り方を変えるのです。
■ [大事なこと]だれにとって
『学び合い』を否定される方への反証は実はもの凄く簡単です。否定される方は工業化社会の論理で考えているからです。
否定される方が、『学び合い』のここがダメ、あそこに危険性があると指摘したら、言わせるだけ言わせます。そして「では、どうするんですか?」と聞きます。そうすると、その人の考える方法を語ります。大抵は、自分の過去の経験に基づくものです。つまり、将来教師になるであろう人にフィットする方法を述べます。
私は「誰にとってその方法がいいのですか?」と聞きます。
ほぼ100%、「子どもにとって」と応えます。
私は「子どもという子どもは一人もいません。将来、東京大学に入るような子どももいれば、知的な障害が疑われる子もいます。その教科が好きな子どももいれば、嫌いな子どももいます。図で説明したとき分かる子もいます。言葉で説明したとき分かる子もいます。さて、どの子にとっていいのですか?」と言うと返答できません。
次に私は「だいたいの授業は成績中、中の下に合わせますよね。そうすると、成績上位の子どもにとっては既に分かっていることの繰り返しになってしまいます。成績下位の子どもにとってはチンプンカンプンです。それはテストをやれば分かりますよね。では、その子達にあった説明が必要なのではないでしょうか?」と言います。
一拍あけて「三十人の子どもを一人の教師が教えることは、物理的に無理です。だったら、三十人の子どもが三十人の子どもを支える集団にすることにシフトしませんか?」と言います。これでチェックメイトです。
さて、このような論理展開になるのは時代の流れです。明治時代はこのような説得は出来ませんでした。
第一に、今の時代は満たされた時代なのです。工業化社会の初期には、皆、飢えていた。飢えているならば、質の悪いパンであったとしても与えられれば喜んでいました。ところが、工業化社会が発達し、飢えから脱すれば、質を求める。昔だったら、学校に行けることで満足していたのが、よりよい教育を求めるようになります。
第二に、民主主義の発達によって、皆、自分の権利を主張するようになります。
以上の二つから、脱工業化社会の論理が広がっていくのです。
昔だったら、上記の私の論を展開しても、「全員を分からせるのは無理です。できる限りのことをするしかありません」ということを臆面もなく言えました。ところが、今の世の中、それは言えません。更に言えば、ネット上に良質な授業動画が溢れることによって、保護者は現状の学校教育を捨てることが可能になったのです。
文部科学省や経済産業省の会議の資料を読むとき、私は「だれにとって」という言葉を何度も頭に浮かべます。「そういうことが出来る、そういうことが理解出来る、そういうことが必要な子どもがいること確かだけど、そうじゃない子もいるよね。その子はどうするの?」と思ってしまうのです。
■ [大事なこと]無理だけど
文部科学省も経済産業省も活発に新たな教育の在り方を模索しています。読むと、頑張っているな、と思います。しかし、どこまで行っても工業化社会の枠組みで考えている。つまり、何かベストの方法があり、それを探しているように読めるのです。もちろん、たった一つ出なくても、何らかのベターの方法群があると思っているようです。「規格化」「分業化」「同時化」「集中化」「極大化」「中央集権化」という枠組みと決別できていない。
じゃあ、脱工業化社会の論理だったらどうかんがえるか?(これが見事に『学び合い』的です)
「ベスト・ベターな方法なんてあるわけない」と考えるのです。日本人が1億数千万人いるならば、1億数千万通りの方法があります。それも一人一人、ライフステージ、ジャンルによって方法が違います。それを認めて、「個性化」、「総合化」、「非同時化」、「分散化」、「適正規模化」、「地方分権化」しなければ、どこまで行っても時代遅れです。
何が必要かと言えば、達成すべき姿とその実現を阻む「規格化」「分業化」「同時化」「集中化」「極大化」「中央集権化」の排除です。
これからの社会と言えば、AI、ロボット、ドローンなどが出てきます。でも、それらはツールにすぎません。ツールの出現によって、既存のツール(仕事上のノウハウも)は無効化することは確かです。だから、変わらなければならない。しかし、人の幸せの姿は変わりません。なんとなればホモサピエンスのDNAに刻みつけられた、行動の動機となる「幸せ」は数十万年単位でなければ変わらないからです。私たちの体もそうです。つまり、基本OSとハードウエアは変わらない
人の幸せは「家族仲良く健康で」に尽きると思います。別な言い方をすれば、「安定した人間関係を継続できる」です。
日本人の圧倒的大多数は、中学校区の範囲の人間関係でそれを実現します。ローカルエリートは高校の学区の範囲の人間関係、また、企業として成り立つ程度のネットを介した人間関係でそれを実現します。グローバルエリートは繋がりの範囲を特定せず、流動的に繋がります。ただし、ローカルエリートもグローバルエリートも、コアな人間関係は、中学校区の範囲の人間関係が中心となります。(私の本の中で語る体育館の話しです)
基本的に学ぶ内容、学ぶ方法は自由です。例外は育児と介護は学校教育の基本とするのです。
おそらく多くの子どもはICTを使うでしょう。でも、それ以上に、ICTを使いこなす人を使うでしょう。そして、圧倒的大多数の子どもはプログラミングを使いません。それを使いこなす子どもと繋がればいいのですから。ICT以外も、全てを均等に学ぶ必要はありません。ようはそれに長けた子どもと繋がればいい。
では、一人一人の子どもは何を学べばいいかをどのように定めたらいいでしょうか?
それは実際にやってみて、必要ならば学べばいい。具体的な学び方は、先輩から聞けばいい。つまり、就職すればいいのです。現在の学校教育は就職してから役に立たないことは皆さんご存じですよね。でも、みんななんとかやっている。どうやっているかといえば、上記の通りでしょ?これを中学生から始めればいいのです。単線型学校体系を廃し、超複線型にするのです。中学生は長期のドイツ型デュアルシステムで学ぶのです。学校は、その学びをモニターし、適切なアドバイスをします。数学や物理に長けたグローバルエリートになり得る子どもにとって、現状の教育は無駄です。さっさと大学の研究室と繋がればいい。VRが発達しているのですから、物理的に離れていることは障害になりません。
中学生から生産人口になるのであれば、日本の社会は一気に変わります。
このような教育を実現するには、現状の内容・方法を規定する学習指導要領は障害になります。学年別教育も障害になります。ま、書いていくと切りがない。「2030年教師の仕事はこう変わる!」に書いたとおりです。
で、話を戻しますが、文部科学省、経済産業省の文章には、このレベルの世界観がない。いや、見えません。いったい、どのような社会を創ろうとしているのでしょうか?AIやロボットを使いこなす社会は、しょせんツールの使い方なのです。どんな社会で幸せにしようとしているのでしょうか?手がかりは、「個性化」、「総合化」、「非同時化」、「分散化」、「適正規模化」、「地方分権化」を極点に進ました社会をイメージできるか、どこかで工業化社会の「規格化」「分業化」「同時化」「集中化」「極大化」「中央集権化」で考えるかの違いです。
常識には無理だろうな、と思います。基本的に、工業化社会での勝ち組が考えれば、「規格化」「分業化」「同時化」「集中化」「極大化」「中央集権化」になるのは当然です。どうすればいいか、規制を緩和し、若い世代に任せればいい。特に、ユーザーである子どもに。
と書いて、無理だろうな~、と思います。子ども達を有能だと思っていないから。
お手並み拝見。文部科学省、経済産業省にも、私が書いてあることを理解し、それを凌駕するイメージをお持ちの方は必ずいます。あとは政治の問題です。