教師として講義に手を抜きません。ただし、テクニックは手を抜きまくります。ただし、「思い」は手を抜きません。手を抜いたら、見透かす子どもは見切ります。同時に「思い」があれば、必ず伝わる子ども(つまり学生)がいると思っています。私の講義で語るものは私の過去の研究です。それには思いがあります。認知心理学を中心とした研究の場合は冷静にいられます。しかし、教師の心の封印を解いてからの研究・実践には教師の心があります。
私には高校教師の時に犯した罪があります。普通の教師が犯す罪です。しかし、私は「言い教師」を徹底したため、普通の教師が出来ないレベルの罪を犯してしまった。そして『学び合い』研究によって、その罪の重さを知った。だから、目の前にいる学生さんに対して思いがある。でも、『学び合い』のセオリー通りに、これを分かるのは2割弱であることを知っています。だから、私の講義であれ、ゼミでもあれ、それが多くの学生さんに負担にならないようにしています。
あるときはマシンガントークで押さえ込む。あるときは学術データを提示しながら淡々と語る。あるときは学生さん同士の会話によって講義を進める。
ゼミの時は、バカなオッサンです。での、心の中で一人一人のゼミ生をみると、こいつを幸せにしたい、と思います。でも、同時に、それは無理だから、集団づくりが必要だと理性が語ります。
つくづく思います。退職したら、この負担がない。
と、思った瞬間に思いました。俺って、オンラインゼミを始めたんだ。大変さと楽しさはトレードオフだね。
何で、こんなことを書いたかと言えば、本日は泣きながら講義をしました。我々は面白い授業、分かりやすい授業を目指しているのではありません。まあ、それはたやすく実現しますが。目指しているのは子どもの一生涯の幸せです。そのあたりを語り始めると、感情コントロールが出来ません。
過去のゼミ生からは、「泣いてはだめ」と言われています。その通りでしょう。大多数の学生は、それを望んでいない。でも、私が伝えるべきは、私の思いを感じる人です。
追伸 教員養成系大学の講義で泣きながら講義している人って、どれほどいるだろうか。