■ [懺悔]言っていること、やっていること
息子に「おかたづけしようか?」、「ないないしよう」というと、一生懸命になって遊んだおもちゃをおもちゃ箱に入れます。ところが、この2、3日、いくら言っても片づけようとしません。その原因として、心当たりがあります。息子に「おかたづけしようか?」と言う前に、息子には片づけるには難しそうなものを、私の方で事前に片づけます。その姿を、息子はじっと見ているんです。きっと、片付けを任していないことに気づいたのではないでしょうか?本当は、出来ないなら、出来ないで、それを認めればいいことなんです。それを、先走って「失敗しないように」、「必ず成功するように」と、援助しては、息子の能力は伸びません。なによりも、伸びようとする息子の気持ちを萎えさせてしまいます。
先日、院生のMさんとの個人面接をやりました。内容は、2学期から始める現場で実践研究の授業内容です。授業では、インターネットを使って子どもたちに伝統工芸に関して調べさせる活動を行わせます。しかし、Mさんの経験によれば、子どもがインターネットを使って情報検索しても、なかなかヒットしません。結果として、検索だけに時間がかかり、1時間が終わってしまいがちです。そのため、Mさんは、事前にインターネットで関係するホームページを検索し、そのアドレス一覧を作り、それを子どもたちに与えるそうです。それに対して、以下のように私は話しました。
検索に時間がかかり、1時間がそれに終わってもいいじゃない。
結果として、調べた成果が、レベルが高くなくてもいいじゃない。
実際に検索し、その結果として出来た成果が、本当の成果だと思うよ。
教師が先回りして、準備して出来た成果というのは、見た目はレベルが高いけど、子どもが学んだものはレベルが低いんじゃない。
検索に時間がかかったという経験をすれば、「どうやったら検索がうまくいくか」、「インターネット以外にいい方法はないか」、「インターネットによる、情報検索の得意・不得意は何か」を学びます。
先生が先回りしない方がいいんじゃないかな?
もし、アドレス一覧が便利ならば、それを作るのはMさんじゃなく、子どもたちがその必要性に気づき、それを作りたいと願う場は何かを考えたら。
ここまでのレベルにしなきゃならないというのは、教師の囚われだよね。
と、偉そうに言いました。しかし、振り返れば、自分自身も,先回りし、あるレベルにしなければならないという思いに囚われているんですね。