■ [う~ん]読後感想
昨日、ある方から「学び合う教室」、「学び合いの仕組みと不思議」の下記の読後感想をメールでいただきました。読みながら、うちの研究室が無意識で前提としていることに気づき、とても嬉しくなりました。
『両ご著書ともに、私の感覚(現場教師の立場)からすると、どうして教師と子どもたちのかかわりやそのプロトコルがないのかずっと気になっていました。何を学んでいるのか、どういう課題設定や、問題設定がなされ、どのような発問によって提示されたり、指示がなされているのか。または、教室の学びの土壌をどのような言葉で子どもたちに育んでいるのかなど・・・多くは触れていないことに疑問を抱いていました。
後者の冒頭「『我々がよいと思っているクラスの姿』の最終的な姿」について、私の想像ですが、場と環境を整えた学校の中で、自らの学びを子どもたちが子どもたちの中でその学び合いの諸活動によってなしていくクラスなのだろうと・・・。そこには教師の教授的な指導はもう必要とはされないのだろうと・・・。
そう考えてくると、先の疑問は氷解します。子どもたちを見ていること、それが中心であって、教師とのやり取りは学習者主体の学びからするとそれほど重要なことではなくなるのだと解しました。』
私自身は本を書く際、教師とのやりとりを省略しようとか、少なくしようとか、とはちょっとも思いませんでした。むしろ、丁寧に書いていると、かってに思っていました。しかし、上記のメールを読んで、「なるほど」と気づきました。たしかに、多くの教育書の場合は、子どもの反応に関してはあまり書いていません(あっても教卓から見える子どもの姿です)。しかし、教師がどんな発言をして、どんな資料を用意してという部分に対しては、「これでもか、これでもか」と書いている本が多いように思います。しかし、私の無意識の前提で、他の本で「これでもか、これでもか」と書かれている部分は、どうでもいいことと判断していたんですね。それで、他の本を読み慣れている方には、「何でだろう~」と思わせていたことに気づきました。
追伸 我々の研究室に現在所属されている方はご存じですが、現在、教師と子どもたちの会話も分析の対象となっています。しかし、分析の視点がだいぶ違います。つまり、普通の分析の視点であれば、「教師がこれこれ言ったから、こんな素晴らしい学びが出来た」という分析をします。しかし、我々が現在分析している結果によれば、「教師が、これこれ言ったから、こんなに学びが阻害されてしまった」、もっと平たい言葉で言えば、「教師がしゃしゃり出すぎたため、子どもたちがドッチラケになってしまった」ということが明らかになっています。