お問い合わせ  お問い合わせがありましたら、内容を明記し電子メールにてお問い合わせ下さい。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。             

2002-05-01

[]人を見て法を説け 11:00 人を見て法を説け - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 人を見て法を説け - 西川純のメモ 人を見て法を説け - 西川純のメモ のブックマークコメント

 高校時代のことです。運動部に所属する友達が、所属する部が大変だと愚痴ることがありました。いかに時間を取られ、一つ一つの練習がきついかを長々説明を聞かされます。あまりに愚痴るので、「そんなら、その部を辞めればいいじゃん」と言いました。しかし、それに対しては「モゴモゴ」言うばかりで、要領を得ません。結局、その友人は卒業までその部に所属していました。それに、愚痴を言っているのですが、結構、楽しんでいるように見えました。

 我々の研究室は、とてもハード研究室です。数ヶ月にわたる授業の様子を、2~3台のビデオ、10~40台のカセットテープレコーダーで記録し、それらの記録を分析するという、ものすごく手間のかかる研究手法をとっています。それ故、私自身もハードであることを公言していますし、所属している院生も公言しています。しかし、最近、それを表現するには注意がいることに気づきました。

 我々の研究室ハード研究室であることは学部学生には知られています。なにしろ、卒業研究の半数は学会誌に掲載されるレベル研究をしています。しかし、上越教育大学において、学部学生にとってはもっとも人気のある研究室の一つです。私が理科コース所属であった時代は、所属人数の上限が設けられていました(年度によって違いますが2~3人)。過去10年間において、その上限を希望者が上回らなかったのは1年のみです(その年度は上限と希望者が一致した3人です)。教官の人数が170人で、学生定員が200名(現在は160名)という比率を考えれば、極めて高い競争率を維持しています。

 ハード研究室であるにも関わらず、人気が高いことには二つの要因があります。第一に、所属を決定する3年生になるまでに、私の話を少なくとも半期の講義(つまり十数回の講義)で聞くことになります。そのため、我々の研究室で何をしているかを知ることができます。また、講義を通じて、私がどんなタイプ人間かを知ることができます。第二の要因は、我々の研究室に所属する3年生、4年生(先輩)の生の声を、1~2年間という期間にわたって聞くことができることがあげられます。クラブ等でよく知っている先輩から、表情報裏情報を収集することができます。 以上の情報を通して、我々の研究室ハードであるが、そのハードとは採用している研究手法が手間のかかる手法であることで、その他(特に人間関係)においてはハードではないことを知ることができます。

 我々の研究室の特徴は、修士1年と修士2年が仲がよいという特徴があります。馬鹿みたいに当たり前のような特徴ですが、案外、その条件を満たしている研究室は多くはありません。たとえば、教官対各院生という図式の指導関係の場合、一人一人の院生は個人として研究しています。そのため同じ研究室院生であってもバラバラです。特に学年が違うと、同じ研究室であっても話したことがあまり無いという場合も少なくありません。また、学部学生院生(現職院生)と仲がよいという特徴があります。これも当たり前のようですが、先と同様にバラバラに指導されている場合は、交流する機会はあまりありません。我々の研究室では「学び合い」を研究していますが、研究室の運営は「正に」その実践の場です。院生学生教官(すなわち私)がそれぞれの立場と役割を担いつつ、ゴジャゴジャと運営しています。また、主催者である私が馬鹿話が大好きなことを反映して、ゼミでは馬鹿話があふれています。研究上質の高い会話と、駄洒落・冗談・からかい・じゃれ合いが渾然となったゼミとなっています。そのような明るい関係が成立しているので、結果として、生活面や研究面で全体としてサポートし合います。仮に教官一人、院生(もしくは学生)一人の研究室の場合、何か問題が起こった場合、逃げ場がありません。ところが我々の研究室は常に10人以上の集団を形成しているため、ストレスが分散することができます。具体的には、教官に対する「健全」な悪口を言うことができます。

 先に述べたように、学部学生の場合は数年間という期間を通じ、よく知った人から直接情報を収集することができます。しかし、院生(他大学卒業生、現職院生)の場合は、入学した当初は右も左も分かりません。そのため、本年度は学習過程臨床分野では、分野説明会の大多数の時間を、在学院生研究室ごとに別れて研究室説明会をしました。我々の研究室でも修士2年の方々が説明をしました。そこでは、「西川研究室は大変だぞ~」、「西川先生は○○だぞ~」と脅かしまくったそうです。院生さんは、「健全」な悪口を言いまくったそうです。しかし、「大変だぞ~」と言っている院生さんが、あまりにニコニコ楽しそうに言っているので、説明を聞いた方からは、「何故、そんなに大変なのに、ニコニコ楽しそうに説明するんですか?」と質問を受けたそうです。現在所属されているメンバーならば、何故、ニコニコ楽しそうに「大変だぞ~」と言っているのかは分かります。また、学部学生の場合は、先に述べた情報を通して、「大変だぞ~」の裏にある我々の研究室の雰囲気(もしくは文化)を感じることができます。でも、学外から来られた方の場合、「大変だぞ~」を間違って受け取る可能性があることに気づき始めました。

 冷静に考えれば当たり前です。情報が限られていて、その限られた情報が「大変だぞ~」だったら誤解するのも当たり前です。また、「大学院はものすごいところだ」とびびりまくっている人が、ニコニコ楽しそうに語っている、その意味推測する余裕はありません。 「人を見て法(のり)を説け」ことは大事だな~。でも、それだけ脅かしまくったのにもかかわらず、今年も我々の研究室に所属することを希望する「猛者(もさ)」がいることに頼もしく感じています。

[]自信を持って言えること 11:00 自信を持って言えること - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 自信を持って言えること - 西川純のメモ 自信を持って言えること - 西川純のメモ のブックマークコメント

我々の研究室に所属されると、最初にカルチャーショックを受けます。我々が拠って立つ立場は、分かってしまえば簡単なんですが、平常の教員生活では気づきにくいものです。その立場に立つと、今まで「子ども中心」と考えていた自身の指導が、実は「教師中心」であることに気づきます。また、今まで「子どもは○○だから、□□しているんだ」と考えていたことを、改めて「自分が子どもだったとき、何で□□していたんだろう」と考え直します。また、今まで大事だと思っていたことが、結局、テクニックに過ぎないことに気づき重要なのは子ども観・授業観であることが分かります。

 それが分かってくると、歴代の院生さんの研究が、まるでチョモランマの山のように見えてきます。そうなると、「自分にあれほどの研究ができるだろうか?」と不安になり始めます。また、「これだけ研究が進んでいるとしたら、自分が研究する余地はあるだろうか?」と考え始めます。

 しかし、ご安心あれ。大丈夫です。一つの例を挙げましょう。仮に、光学顕微鏡しか無い時代に電子顕微鏡を持っている人がいた場合を想像してください。その人がオリジナリティの無い研究をすることはかなり困難です。何をみても、何をしても、光学顕微鏡で見ている人よりも、簡単により高度な研究が可能です。我々の研究室の場合も同じです。 教育研究において、子どもを長期間にわたってよく見る、よく記録し、よく分析することが有効であることを否定する人は少ないでしょう。我々はその当たり前のことをやっています。しかし、当たり前ではあるものの、実際には行われていなかった研究です。なぜなら、数ヶ月にわたってクラスを公開してくれる奇特な学校・教師は殆どいません。ましてや、それを2~3台のビデオと10~40台のカセットテープレコーダーで記録し、それら全てを分析するという気の遠くなる作業をする人も殆どいません。このような研究が可能なのは、現職教員を2年間フルに研究に没頭させてくれるという上越教育大学の特殊性だからです。その上越教育大学でも、この利点を最大限利用している研究室は多くありません。すなわち、我が国(おそらく世界的にも)の多くの研究室が持っていない、強力な手法で分析しています。つまり、電子顕微鏡を持っている数少ない研究室ということになります。だからこそ、「一流の研究ができない」と心配する必要はないですよと、自信を持って言えます。

 でも、膨大なデータがあったとしても、どのような視点で分析するか思いつかないのではと心配される方もおられます。しかし、それも杞憂(きゆう)です。子どもを10年間みられた方が、今まで見えなかった視点で子どもを見れば、「へ~、そうなんだ~」と気づかないわけがありません。その「へ~、そうなんだ~」という視点こそが一流の教育研究の視点となります。でも、「へ~、そうなんだ~」という視点は、普通で当たり前すぎて、学問ぽくないと感じられる方もおられます。しかし、我々はその普通で当たり前のことが大事だと思っています。だって、小難しい理論や、難解な述語を使わなければ記述できないような研究は、その成果を現場還元することはできません。だって、現場普通先生方がその小難しい理論や、難解な述語を勉強する時間はありません。たしかに学問のための学問存在を否定するわけではないですが、我々が目指す教育研究は、現場還元できる(それも間接的ではなく直接的に)研究ですから。