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2003-09-14

[]つぶやく2 10:14 つぶやく2 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - つぶやく2 - 西川純のメモ つぶやく2 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 学び合いは、子ども達全体で作り上げるものです。しかし、姿が端的に見えるのは、そのグループリーダー格の子どもです。子どもグループの中で、学び合いが起こる前も、起こった後も、相対的なオピニオンリーダーは変わっていません。しかし、表出の様相は、前後で変わります。学び合いが成立する前は、俺が考え、俺が段取りをし、俺がやり、俺が後始末をします。学び合いが成立した後は、みんなが考え、みんなで段取りをして、みんなでやり、みんなで後始末をします。そして、リーダー格の子どもは、それぞれの段階でサポート役(モニター役)になります。そして、ちょっと目には、そのように見えません。つまり黒子(くろこ)になるんです。

 今までの研究の蓄積からまとめると、その変化の過程は以下の通りです。従前の教室の状態では、課題解決が優先されています。しかし、それ以上に重要なのは、リーダー格の子どもが他の子どもの有能さを気づいていませんし、他の子どもも自身の有能さに気づいていません。そのため、上記のような「俺が、俺が」という行動になります。そこで、教師は学び合いの文化を導入します。その方法は、リーダー格の子ども、そして他の子どもが、客観的に「嫌な人間」に見えることを、メンバー全員に可視化します(具体的には自己モニター)。その結果として、リーダー格の子どもは、課題解決を一度、脇に置いて、メンバーと協力するようになります。その状態で起こるのが、「司会役」という存在です。即ち、発言の少ない子どもに発言を促し、補う行動をするようになります。少なくとも「学び合う教室」の時代では、私はその行動を良い行動だと評価していました。しかし、今はそう思っていません。

 司会役が生起することによって、徐々に他のメンバーが発言数が上昇し、他のメンバーの率直な疑問がリーダー(司会役)に向けられます。その時点に大きな分かれ目があるようです。そのことを、「学び合う教室」時代には見落としていました。リーダー格の子どもの中には、学び合うこと自体を目的として行動し始めるのですが、他のメンバーの発言を聞き、話し合うことによって、他のメンバーは実は有能であることに気づく子が生じます。そして、他のメンバーも、自分の中に有能さがあることに気づくようになります。そうなると、メンバーの間に上下関係消失します。メンバーの全てが促されなくても発言するようになります。こうなると、学び合うこと自体を強調する必要性は全くありません。さらに進むと、いわゆる整然とした会話ではなく、ローカルな会話、オーバーラップ会話が増加します。このような集団には司会役は消滅します。昨年の西川研究室ゼミは、この状態に達していました(もしくは、近い段階に達していました)。

 しかし、残念ながら全てのグループはそうなるとは限りません。リーダー格の子どもは、学び合うことを目的として、司会役をこなすなど、それなりの努力をします。しかし、もし、いつまでたっても他のメンバーの中に有能さを発見できなかったり、他のメンバーが自身の有能に気づくことが出来ない場合はどうなるでしょうか?リーダー格の子どもも一定の期間は、課題解決を脇に置き、学び合うこと自体を目的とすることは出来ます。しかし、1ヶ月半もたつと、何故、課題解決を脇に置くのかが分からなくなってしまいます。そうなってくると、「何でこいつらとつきあって行かねばならないんだ!」となります。そして、その苛立ちの矛先は、そのグループの中で、もっとも有能さを感じられないメンバーに向けられます。結果として、そのメンバーを排斥する行動をするようになります。そして、他のメンバー同調するようになります。1ヶ月もたつと排斥が完了します。しかし、排斥が始まった段階で学び合いの文化は形骸化します。そこに残るのは、一緒に一定の場所にいるという形式のみがのこります。そのため、排斥が完了したときには、メンバーの間に凝縮力は存在せず、そのグループの速やかに完全に崩壊します。

 前者グループ後者グループを比べたとき、リーダー格の子どもの行動が決定的に違います。しかし、前者がよい子で、後者が悪い子だとは思っていません。前者は他のメンバーの有能さを感じたから、つねに他のメンバーサポートをやれたんだと思います。他のメンバーの有能さを感じたから、司会役を離れることの意義を積極的に感じたのだと思います。決して、人間性が優れたからではなく、そのことが課題解決の目的矛盾がなかったからです。逆に言えば、後者の子は、他のメンバーの有能さを感じられないにも関わらず、グループであることを教師に強いられた、ある意味被害者なのだと思います。

 学び合いに問題が生じた場合の兆候は、いくつかあります。たとえば、いつまでも司会役が消失しない、常に発言しないメンバーがいる、一緒にやる場において欠席・遅刻する。これらは、別々に見えて、実は同根です。その大本は、リーダー格が他のメンバーの有能さを感じておらず、他のメンバーが自身の有能さを感じていない(もしくは、リーダー格の子に有能だと思われていないと思っている)ことに由来します。したがって、そこを変えずに、形式的に司会役を消失させたり、出席・発言を強いたばあい、もっと深い問題になる可能性があります。問題は方法のレベルで解決出来ません。学び合の文化で最も重要なコアは、他のメンバーに有能さを感じる、他のメンバー馬鹿にしない、ということです。そこを何とかしなければなりません。

 根本的な問題は、教師の問題です。でも、なんでもかんでも教師がやるというのであれば、結局、教師主導に過ぎません。それに、学習者個々のレベルのことを解決出来るのは、学習者しかありません。教師の出来ることは場を設定することです。それでは、どうしたらいいか?難しいことです。でも、その手がかりはあります。特に、現職の方は。自身の過去を振り返り、やりやすかった職場を思い出してください。その時、先輩教師、教務主任・・は自分に対して、どうだったか?逆に、自分は後輩教師に対してどうだったか?そして、そのような関係が成立したのは、学校のどのような場がさせたのか?そして、その場を成立するに、校長に何を求めたか?このことは、やりにくかった職場と比較すれば、より明確になるはずです。それを愚かな教師に教えていただければ、愚かな教師も気づきます。

追伸 本日、私は44歳になりました。つまり、私が大学卒業した年に生まれた子どもが、大学卒業する年です。大学卒業してから、22年間も学問の世界にいるにもかかわらず、未だに分からぬ事ばかりの愚かな教師です。とほほ・・