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2003-09-24

[]あれから 22:36 あれから - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - あれから - 西川純のメモ あれから - 西川純のメモ のブックマークコメント

ある先生からメールが来ました。それに対する返信です。その先生学び合いをやろうとしたが、うまくいかないと相談されていました。1時間ほど話しました。内容は、学び合いはテクニックではなく、考え方であることを話しました。そして、学び合い活性化させるためには、教えることを控えることをアドバイスしました。その先生からの「あれから」というメールです。差し障りがあると思われる部分を一部修正し掲載することにしました。それにしても、1時間のアドバイスでこれだけのことが出来るというのは驚異です。でも、当たり前のことなのかもしれません。

 我々は学び合いは教える必要はなく、教師が邪魔しなければ生起すると考えます。何故なら、学び合う能力はホモサピエンスの本能だと思っているからです。同様に、学び合いを育てる能力もホモサピエンスの本能なのかもしれません。既存の囚われから逃れれば、その能力は発揮されるのかもしれません。それにしても、センスのいい先生だから、これだけ早く囚われから脱することが出来たんだと思います。二重括弧の部分が、メールに対する私のコメントです。

 ちなみに、このメールを公開する意味は、クラス学習者の諸情報可視化と同様の教育効果を願ってのことであることは言うまでもないことです。

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 あれから、ちょっと悩んだり混乱したりしながら、もう一度自分のクラス学習の進め方について考えました。学校のあらゆる活動は子供たちが主体になった方が絶対いい!と思っていたもののなかなかうまくいかなかったのは自分と子供たちの関係に問題があったのではないかと考えていましたが、やはり自分の進め方と考え方に問題があったと思います。自分の中である程度、関係ができないと学び合いなどできないと思い、そういうチャンスを作っていなかったと反省でした。そしてなんでも自分で進める教師は、自分の立場が危うくなるのではないかという不安からできないんだとバカにしていましたが、私自身が新しいクラスで自分の立場確立することばかりで子供に任せる余裕がなかったのでした。すみません。

 今学期に入り、「夏休み中に先生考えたんだけど、みんなの力をもっと伸ばすためには、1学期の先生がいっつも進めるやり方じゃだめだと思ったの。2学期はみんなにたくさん話し合ってもらいながら、みんなに授業を進めてもらうようにするね。もっとはやく気付けば良かった、ごめん!!」というようなことを話しました。(もちろん、学級目標の話から始めました。)子供たちはなんかとてもうれしそうに話を聞いてくれました。(錯覚じゃないと思います。)

 『それが一番いい方法です。間違っていると思ったら、ちゃんと話し、謝って、協力を求めれば好いんです。』

 それから、授業の中に必ず話し合いの時間を入れるようにしました。初めは「近くの人と話し合ってみてね。」と言いました。班ごとにとも思いましたが、子供人間関係が見たくてそういう指示はしませんでした。初めの2~3日は掃除の割り振りや係決め、合宿の班割りをどうするか等話し合いました。近くの人と・・・と言ってもこれまで話し合いが得意でない子は近くの人とも話しませんでした。また、隣の子を無視して他と話すヤツなどもいました。それでも、子供たちは掃除にしても合宿の班割りにしても、こちらが期待している以上のことを言ってくれました。合宿の班割りを子供たちに話し合わせるのは、賭けみたいなものでした。(中略)子供たちは「合宿はいろいろな人と仲良くなるためにいくんだから、くじ引きとか名簿順とかの方がいい。」とか「いつも仲のいい人とばかりじゃ勉強にならないよ。」などとすごいことをたくさん言ってくれて、学年学級関係なく機械的にわけるということになりました。すごいですね、子供って。

 『子ども馬鹿じゃないですよね。』

 授業の方は、2学期はあらゆる教科で話し合っています。特に算数は12月の研究授業に備えて、はじめの2つの単元は学級担任が自分のクラスを把握し直すためにT.Tでそれから学級を2つにわけて16人のクラスで、その後は習熟度で進めていきます。基礎学力向上のためにその単元に合った、効率よく学べる学習形態を探るということと、この間西川先生アドバイスしていただいたことを参考にさせていただいて、うちの学校では人と関わる力を大切にしているということで、必ず話し合いの時間を入れていき、授業の後にアンケートを取り、データとして残していくことになりました。

 初めの1時間目は三角形の内角の和を求めるという授業でした。「他の人と話し合ってね。教えてもらったり、なにかわかったら教えてあげてね。席をたってもいいよ。」と言いましたが、全く話し合わない子が二人、一方的に聞くだけの子多数、立ち歩く子は二人だけでした。先生の本はまだ全部読んでないのですが、イタイことがたくさんありました。この時間は一人の優秀な子にみんな教えてもらうことになってしまったこと、話し合いは普段の話し方でいいのに子供にそれが伝わってなかったことなどです。でも、ほとんど授業中どころか普段も話をしない○が近くの子に教えてもらって、私が教えるときよりうれしそうにしていました。

 算数2時間目には立ち歩く子が12人に増えました。(席立っていいよと言ってからですが。)もちろん、他の授業でも話し合っているからだと思いますが。3時間目(10日)は子供が「回ってこようかな。」と言って席を立ち、○は他の子に教えてもらってにこにことうれしそうにしていました。しかも、練習問題では自分から人に聞いて学習を進めました。これまででは考えられません。いつもできなくても一人じ~として私に声をかけられいやいややっていたのですから。そしてこれまで話し合いを絶対にしなかった子が席を立って他のこのところに行って笑顔で話していました。それにしても、新学期に「みんな学習を進めてね。」と話してから、最初の2~3日以外は私の所には全然聞きにこなくなりました。

 5時間目になると、これまではいなかった立ち歩いて遊んでると思われる子供が出てきたので、怒ってみました。「これまでみんな学習を進めるって話で、みんながんばってると思ってたのに、席たってふざけてるようじゃこういう勉強の仕方はできない!○○と○○は今日は席立つの禁止!!1学期にもどす?どうする?」と聞きました。でも、子供全員ができるまで待つでいいのだろうかとも悩みました。初めだから待とうと決心したのですが。子供たちは期待通り、「先生、僕たちで進める方が絶対勉強になるから今まで通りにしてください。」と言っていました。私もどこまで黙って見ているべきか悩みましたが、たぶんこれで良かったと思っています。

 『とても良い方法です。その子を叱るのではなく、集団の問題にして、全体に問いかけるという方法が、我々の方法です。』

 これまで学習を進めてきた中で、驚いたのは泣きながら学習していた子が、他の子に教えてもらってうれしかった、よくわかったと言っていたこと、学年一優秀と言われていた子が「○○ちゃんに教えてもらってよくわかった~!!」とか子供たちでどんどんいろいろな解き方を出してきたことです。そして他の場面でも、たくさん話すようになったことや暗かった子が明るくなったり人間関係がよくなってきたことです。また一方的におしえてもらう立場の子はプライドもあるだろうし、いやな思いをするんじゃないかと思いましたが、聞いてみると「うれしい。」とのことで私も安心でした。早く一方的に教えるとかでなく、みんなで学び合うようになれば・・・とあせってます。

 『一つ確認したいのですが、教える方が偉くて、学ぶ方が駄目という意識を子どもに持たせてはいけません。そのためには、教師自身が、その囚われを捨てる必要があります。人には、得手、不得手があります。能力・趣味の違いがあります。それを一様にすることは無理があります。知っている人が、教えるのはあたりまえです。知らない人が、聞くのは当たり前です。でも、それは人間上下関係ではありません。そうでないなら、プライドは問題ないはずです。まあ、出来れば多様な場面で子ども達の相互作用の場を設けてあげることを留意すればいいでしょう。そうすれば、子ども達は、ちゃんと帳尻あわせをしますよ。例えば、うちの研究室で学卒院生さんは、コンパの時の幹事役をかって出てきます。幹事役で汗をかいている彼に、現職院生さんは「ご苦労様」と声をかけています。異質であることは悪いことではありません、それぞれの立場に合わせて、なんか貢献する場を見出すものです。そのために、教師は、多様な場を設けることだけを留意すべきでしょう。』

 でも以外なことに普段は面倒見の良い気の強い女子が一人、「先生、私、人に教えてもらうやだ!」と言ってきました。そしてある子は○に教えてあげるのはいいけど、○が出来ているのに隣で自分ができないにも関わらず絶対に聞かないのでした。でも、これはこういう学び合い学習をしなければ気付かなかったことです。これから学習を進める中で、教え合いじゃなくて本当に学び合いができるようになって、これらの人間関係改善されればと思います。「みんなすばらしい、みんな大事」と子供たちが心から思えるクラスにしたいです。そして、若干一名、優秀だと言われている男が単元終わりの学習の進め方に関するアンケートで「楽しかったけど、それぞれスピードが違うから、やっぱりスピード順に分けてほしい。」と言ってきたことにどう対処しようかと考えています。また、自分の中では話し合いを把握しているのかどうか自分でも不安だということ(やっぱりビデオでしょうか)、今TTをしている先生が「先生はとことん子供に任せるんですね、ぼくもそれはすばらしいと思うんだけど、僕は何をしたらいいんでしょう?」と聞いてくることにどう対処しようか考え中です。とりあえず、「子供がどんな話をしているかよく聞こうよ、きっと毎日進歩してるからさ。」と言ってあるのですが、そして授業が終わると「あの子のここが進歩したんだよ」とか話すのですが、たぶん納得してないみたいです。彼の言うことも理解できますし、簡単にしかも「なるほど」と思わせるためにどうしたらいいか考え中です。

 『教師がやらねばならないことは、い~ぱいあります。「静かにを言わない授業」の最後に書いたように、褒め、つぶやき、可視化する、そして教えない(とぼける)・・・。それに、今の状態の素晴らしさを、一人でも多くの先生方に可視化し、仲間を作ることです。学び合いがうまくいけば行くほど、子ども達は「もっと、もっと」となるでしょう。その時、その望みを叶えてあげるためには、学び合う教師集団が必要となります。』

以下は算数単元終わりのアンケート感想部分です。感動しました。今まで何をしてたんだろうと思います。

・教え合う方が自分がわかるまで待ってくれたりわかりやすく教えてくれたり、教えたりできた。1学期よりだんぜんいい。

・教えてもらうことも教えることもできたけど、男女別れてたから今度から男女一緒にできるようにしたい。(私はここまで考えませんでした。)

・教え合うと自分と違う意見の人がいて勉強が良くわかるし楽しい

・今まで算数はほとんど先生から教えてもらっていたけど友達の方がよくわかるとおもいました。

・35人で教えたり教えてもらったりして、私は教えてもらってばかりだけど、がんばりたいです。たまにいやなときもあったけど算数がすきになってきました。

・友達に教えているうちに説明ができていて自分でもびっくりした。前は説明や理由を言うのがうまくなかったけれど、だんだんできるようになってうれしいです。これからもどんどん教え合いたいです。

・私は教え合ったりして勉強が好きになってしまうかんじがする。またやりたい。

・ぼくはこういうことっていいなと思いました。

・算数がたのしくなった。人の意見も聞けるようになった。

・教えると2回勉強できるから自分の役にたちます。

今日、○に教えたらいつもより早く計算できた。

・1時間目わからなかったこともみんなで考えたらよくわかった。

・なんかしらないけど、すごくわかりやすかった。

その他、ほとんど子供が「もっと勉強したい」と書いてありました。

 『どういう形式で書かせたか不明なので一概に言えませんが、子ども達の、上記の感想を教室に張り出すことは有効ですよ。「学び合いの仕組みと不思議」の環境教育のところに書きましたが、「みんなが・・」という意識はとても大事なことです。』

 私も「学び合い」についてもっと勉強したいと思いました。教え合いじゃだめですよね。

 『その通りです。そして、「学び合い」を通じて、メンバーみんなが、相互に互恵する関係が成り立つことを目指しましょう。』

 西川先生、またメールしますのでよろしくお願いいたします。

 『どうそ、どうぞ。』

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追伸 このメールのあとに、教える/教えられるという関係人間上下関係ではないことに関するコメントに対して直ぐに返信が来ました。とても囚われのない先生です。

[]日本語を国際語にするため 22:36 日本語を国際語にするため - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 日本語を国際語にするため - 西川純のメモ 日本語を国際語にするため - 西川純のメモ のブックマークコメント

 息子を見ていると、自分が普通に行っていることが、すごく難しいことであることに気づくことがあります。その一つが寝間着のズボンの前後です。ズボンの前と後ろを判断する基準は、あるときは縫い目であり、あるときはポッケの有無、あるときはタグの有無など、千差万別です。比較的はっきりとした手がかりであるポッケにしても、つねに後ろにあるわけではありません。なかには前側にポッケがある場合もあります。大人の私は何気なく判断しています。しかし、それを息子に伝えようとすると、複雑なルールであることに気づきます。その複雑さは、外国語に似ているように思いました。

 英語を学んだとき、複数形が「s」を付けるものばかりであればいいのにと思いましたし、過去形は「ed」を付けるものばかりであればいいのに思いました。ところが、不規則な変化をする名詞動詞があります。第二外国語を学ぶようになれば悩む、「男性」、「女性」、「中性」のルールは、まったくナンセンスです。でも、英米人は不規則変化する名詞動詞の非効率を感じることはありません。独仏人は性別のルールを非効率を感じていません。まるで私がズボンの前後ろを何気なく判断するように。だから、変えることはないのだと思います。

 国語審議会メンバーは、日本人ばかりだと思います。でも、日本語を学び始めて間もない外国人をいれてはどうでしょうか?そうすれば日本語の非効率な部分が分かると思います。それらの人の意見を参考に日本語を改良すれば、日本語は国際語に脱皮するのではないでしょうか?さらに言えば、ウラル・アルタイ語族大韓民国モンゴル共和国ハンガリー共和国フィンランド共和国エストニア共和国トルコ共和国と調整したらどうでしょうか?息子が寝間着のズボンの前後に悩んでいる姿を見ながら、ふと考えてみました。

ウラル・アルタイ語:言葉の順序や語形ではなく、助詞・助動詞のような付属語によって格が定まる特徴を持つ言葉

[]不登校 22:36 不登校 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 不登校 - 西川純のメモ 不登校 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある先生から、かなり前にいただいたメールです。その先生が「研究(03.4.21)」を読まれたあとの感想です。その先生は、過去不登校児の個別指導をすることになった経験のある先生です。不登校に悩む先生方に対して意味ある内容と思いましたので、アップすることにしました。なお、差し障りのある部分削除・修正しました。

 『私は、何故か、保護者から彼の家の鍵を預かり、いつも、朝の時間は彼を起こし、朝食をとりながらポンキッキーズを見て、ゲームをしてさあ行くか!と車に彼を乗せての登校でした。すごく矛盾を感じていました。保護者じゃないぞ!私の学級はその当時○○名いました。いつも、俺は○○名の担任で、彼の1人の担任じゃないと思っていました。今までは、教室に行くと、何人かの子どもたちが様々な話しをしに来ます。その機会を奪うことになります。○○名のみんなは、毎朝、とっかえひっかえ来る先生に面倒を見てもらい、1時間目の途中から現れる私にバトンタッチすることに耐えていました。(と思っていました。)申し訳なく思いました。その間、彼らは何をしていたかは不明です。が、ほとんどほったらかしになっていたようです。(中略)

1年間、そんなことを繰り返し、卒業式のとき。ある女の子が私に言いました。

先生、すごかったね。○○の家に毎朝行ってたよね。」

(私)「ごめんね、みんなと一緒に入れなくて・・・」

「ううん。私たちね、先生が毎日○○の家に行ってたから、何かあったときに先生は私のことを助けてくれるっておもったし、みんなもそういってたよ。」

先生もがんばったよ」

(私)「わぁーん・・・・(さらに号泣!!!)」

 分かってくれたんだ・・・6年生にもなれば分かってくれるんだ。正直、感動しました。そして、その後の教師生活の根幹となったことも否定しません。先生の著作、メモなどに触れる前は、一人を救えなくてはみんなを救うことができない。一人一人に寄り添うことが原点だ。やっぱり、私のやっていたことを正しかった。と思いました。

 しかーし、先生の著作などに触れてから、特にこのメモを読んで、ゆっくりと思い起こしたら恐ろしいことに気付きました。もしも、あのとき本当にみんなに何かがあったら、どうしたのでしょうか?と・・・。一人一人が危機的な悩みを抱えて相談してきたら・・・。目が点になりました。はははははっ!実際にはあり得ないよ!と笑ってしまいたいのですが事の大小ではなくみんな悩みがあるはず・・・ですよね。笑い事ではないのです。これが、私の波乗り人生原因かもしれません。「この学級だからとか」「あのときのクラスがよかった」、そういうことが言えてしまうのでしょう。どこかのアマチュアサーファーのように、よい波を求めて流浪の民になっていたのでしょう・・・

 恐ろしい。これの末路がベテラン教師にあるがちな崩壊への道なのでしょうか?プロフェッショナルとは何かということを考えさせられます。と同時に、まだ自分がセミプロであることに気付きました。』

 この先生は、我々のメッセージを正しく捉えて頂きました。蛇足(釈迦に説法)とは思ったのですが、この先生が分かっていることを再度メールしました。以下が私の返信です。

 『拝読しました。

 我々の研究室の考え方を短い言葉にいえば、子どもは有能であるという子ども観、教師はその子どもの有能さをサポートするのが仕事という授業観といえます。さらに、学校教育目的は、人と人とのネットワークを組む場を提供することであり、各教科は、その場を具体的課題を与えるものである、という目標観です。このことは、本にも書いているところです。しかし、我々の本を読んだ方の半数近くの方は、この部分は「建前論」であると読み飛ばすのではないでしょうか?そして、自己モニターをテクニック的に捉えてしまうでしょう。でも、上記は「建前論」ではなく、本質的な部分だと思います。先生、お一人お一人のおかれた状況は千差万別です。それに対して、具体的な方法をとやかく言うのは愚かであり、傲慢と思います。我々は、子ども観、授業観、目標観を提示し、それにもとづいて「もう一つの引き出し」を用意して貰いたいと願っています。でも、このことを理解出来る方は、なかなかいません。我々の研究室に所属される方でも、本当に理解するのは、最低でも半年はかかります。

 さて、上記の子ども観、授業観、目標観で○さんのメールを、違った視点で見たいと思います。

1年間、そんなことを繰り返し、卒業式のとき。ある女の子が私に言いました。

先生、すごかったね。○○の家に毎朝行ってたよね。」

(私)「ごめんね、みんなと一緒に入れなくて・・・」

「ううん。私たちね、先生が毎日○○の家に行ってたから、何かあったときに先生は私のことを助けてくれるって思ったし、みんなもそういってたよ。」

先生もがんばったよ」

(私)「わぁーん・・・・(さらに号泣!!!)」

 とありました。でも、こういうこともあり得たのではないでしょうか?

1年間、そんなことを繰り返し、卒業式のとき。ある女の子が私に言いました。

先生、すごかったね。みんなで○○の家に毎朝行ってたよね。」

(私)「ごめんね、みんな大変だったよね・・・」

「ううん。私たちね、みんなで毎日○○の家に行ってたから、何かあったときにみんなは私のことを助けてくれるって思ったし、みんなもそういってたよ。」

みんなもがんばったよ」

(私)「わぁーん・・・・(さらに号泣!!!)」

 どうでしょうか?私は思います。教師なんて、たかが教師に過ぎません。それも、家庭を持ち、どっぷりと浸かれません。どっぷりとつかれば、自分の家庭が壊れます。不登校子どもを救って、自分の子ども不登校になっては、笑い話ではありません。子どもは優秀です。その優秀な子どもが40名もいるんです。その子どもといっしょにやれることがあったのではないでしょうか?

 子どもは教師に繋がらなくても生きていけます。しかし、子どもに繋がらなくては学校で生きていけません。教師が不登校子どもと繋がらせるべき相手は、自分自身ではなく、子どもではないでしょうか?教師が全面に出て、何かをやれば、子どもがなにかやることの障害になってしまいます。だから、「おれがやるべきだ、ではなく、おれが邪魔になってはいけない」と思うことも出来るのではないでしょうか?私は思います、「一人を変えることは出来ないが、グラス全員を変えることは出来る」と。40人の優秀な子どもたちが一緒になれば、一人の子どもを変えることが出来ます。(すくなくとも、それが不可能だったら、教師なんぞにできるわけありません)同時に、一人の子どもを変える過程で、40人の子ども自身が変わっていきます。そのことが、学校教育目的である、人と人とのネットワークを組む場ではないでしょうか?では、教師は何をすべきか、実は、自身が出向いて行くことではないように思います。有能な子どもサポートすることです。具体的には、子どもたちがそのような活動をするとなれば、不登校子どもの親御さん、それに、クラスみんなの親御さん、校長、同僚に、そのことを説明し、納得して貰わなければなりません。それは子どもの出来ないことで、教師にしかできないことです。私は、よく「子どもと教師との関係は、教師と校長関係に似ている。置き換えて考えてください。」と勧めます。○○さんが校長に訴えていたのは、「校長にやって欲しい」ということではなかったのではないでしょうか、「俺たちが考えているように、やりたいと思っているようにさせてくれ、そのために教育委員会等の盾になって欲しい」ではなかったでしょうか?これが、我々の持つ子ども観、授業観、目標観からの視点から見た見方です。

 でも、繰り返しますが、おかれた状況で判断するのは教師一人一人です。上記の通りのことが、出来るか、出来ないかは私なんぞにわかりませ。でも、魅力的な見方だと思ったなら、「不可能だ」ではなく「俺に出来る」と考えることを、本を通して訴えています。あくまでも、もう一つの選択肢を用意することが、我々の仕事ですから。

 また、メールしてくださいね。』

追伸 このメモを読んで、「子ども不登校児の家にいかせたら、その子どもは1時間目の授業を受けられなくなるから、上記のことは不可能だ」とお考えになる先生もおられるでしょう。でも我々の場合は、分からないとき子どもに聞きます。愚かな教師なんぞには思いもつかない方法を考えてくれます。「出来ない」と考えるか、「子どもたちと共に、いや、子どもたちなら出来る」と考えるかは、一つの選択です。