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2007-07-12

[]目標設定の第四 15:18 目標設定の第四 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 目標設定の第四 - 西川純のメモ 目標設定の第四 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日の「目標設定」に追申します。

 第四番目に必要なのは、高い志です。子どもも大人も、人は、基本的にエゴイストです。それは生存競争の中で生き残った生物の基本戦略です。従って、目標設定の際、それが当人に利益があることを理解させる必要があります。滅私奉公では続きません。

 が、それが「当人」だけの利益を語るならば、早晩、破綻します。だって、一人一人の最大限の利益は、互いにぶつかりますから。その意味でも「みんな」という縛りは重要です。そして、「みんな」が個の利益反さないためには、個がどれだけ「みんな」にエネルギーを費やすかを判断させる必要があります。

 さて、その「みんな」の抽象度が高まれば、高まるほど、そして、求めるものが困難であれば、あるほど、そして、それらが高い志に根ざすとき、集団は素晴らしいエネルギーを生み出します。なぜなら、「みんな」がクラス程度であれば、クラスみんなが「それでいいや」と言えば、それで向上がストップします。ところが、抽象的、困難で、高い志に根ざすものならば、その上限は無限です。

 これこそ、教師の最大の職能だと考えています。即ち、とてつもなく抽象的で、困難で、高い志に根ざす「むちゃくちゃ」な目標をリアルに思い浮かべ、それを子どもたちに伝える能力です。その「むちゃくちゃ」なものが「出来るかもしれない」と思い始め、「出来たらいいな」と思わせる、それが教師の職能です。そして、それは全ての管理職に求められる職能です。

 我々は教師はクラス(中高においては自分の教科)においては校長だと考えています。

[]空白だらけの原則 13:04 空白だらけの原則 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 空白だらけの原則 - 西川純のメモ 空白だらけの原則 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 多くの優れた教師が授業はどのようにすべきかということを明らかにしています。それを、どのように捉えるかということで、大きな違いが生じます。

 例えば「空白禁止の原則」(たとえ一分間でも「何をやってよいのか分からない」という状態を作ってはならない。)という原則があります。限りある授業時間を最大限に生かすためには、教師としては当然の責務です。しかし、その「何」が何であるかで大きな違いが生じます。我々の場合だと、「何」とは最短でも「その1時間」、出来れば「その単元」、「その学期」、「その年」にやるべき「何」です。そして、クラス全員がやるべき「何」です。ところが、「その子」の「その時」(大抵は数分単位)にやるべき「何」をやっていいのか分からない状態を作らないようにしている先生がおられます。

 しかし、もし子どもたちが金太郎飴のように一律ではなく、多様であると仮定すれば、小学生が出来る計算でそれが不可能であることは導き出されます。でも、不可能にもかかわらず、全身全霊をかけてそれをやらねばならないと思う先生もおられます。典型的なのは教育実習生の授業です。子どもたちの反応が怖いものだから、ありとあらゆることに対応しようとしてヘトヘトになり、授業中は、ありとあらゆることに対応してヘトヘトになります。あまりに余裕がないので、指導案の方ばかりを見て子どもの方に視線が生きません。当然、子どもの反応を受け入れることは出来ません。結果として、子どもを金太郎飴のように一律で、自分の指導は最善だという「大胆」な前提のもとに、とにかく自分の意図したことを子どもに強制します(もちろん、笑顔でね)。

 しかし、圧倒的大多数の教師は、数年も続きません。だって無理だから。どうなるか。大凡の教材の構造を頭に思い描き、ポイントを押さえます。それで教室に行きます。まあ、教科書や指導書を5分程度ぐらい斜め読みすればOKです(但し、毎週、週案を見せろという校長の管下であれば別ですが・・)。

 子どもの反応も怖くありません。だって、分からなかったら、分からないと言えばいえばいい。そして、じゃあどうしたらいいか、と問えばいい。自分では対応不能の「とっぴょうしもない」発言は、クラスみんなの発言の中で拾われます。初めてデートする相手だったら、最初から最後までの話題の計画をしなければならない、と思うでしょう。でも、安定した恋人、妻なれば、そんな計画しようと思わない。だって、「なんとでもできる」と信頼できる関係を形成しているのですから。

 「結婚当初は、絶えず話しかけてくれた。ところが、今ではニコニコして私の話を聞いているだけ。なんか大学で面白いことないの?」と家内から叱られることがあります。でも、そうなるのは家内を信頼しているから、そして、家内といるだけで幸せだから。もし結婚当初のような状態が続くのであれば、結婚生活なんて数十年続くわけ無い。

 「その子」の「その時」(大抵は数分単位)にやるべきことか分からない状態を1分も作らないようにしなければならないのは、子どもたちであると考えるのが我々です。そして、そのためには、「その1時間」、「その単元」、「その学期」、「その年」にクラス全員がやるべきことが分からない状態を1分も作らないようにするのが教師であると考えるのが我々です。

 「その子」の「その時」(大抵は数分単位)にやるべきことか教師が分からない状態が、ず~~っと続く方が望ましいと思います。とうことで、その意味では「空白だらけの原則」とも言えます。あはははは

[]目標の設定 08:24 目標の設定 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 目標の設定 - 西川純のメモ 目標の設定 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ある方から目標の設定に関して質問のメールをいただきました。重要なことなので再度述べます。

 第一に、教師が「本当」の求めるものを、直裁に子どもに言うことです。高邁な教育論をいくら言ったとしても、教科学習なのですから、達成すべきことがあるはずです。

 第二に、その目標子どもに分かると言うことです。例えば、国語先生は「読みの深さ」とおっしゃります、門外漢には全く分からないことを言います(国語先生ごめんなさい)。同様に「いい音」ということをおっしゃります(音楽先生ごめんなさい)。しかし、同僚の先生ですら訳の分からんことなのですから、子どもが分かるわけありません。訳が分からないのですから、一々先生にお伺いを立てる必要があります。お伺いを立てて、「いい、わるい」を言われても、何がなんだか子どもには分かりません。それでは、どうやって勉強して良いのか分かりません。ちなみに、子どもがどうしようもない状態であるのは、これは「一斉授業」でも全く同じです。ただ、「一斉授業」だと教師が気づかないだけのことです。

 もちろん、「いい、わるい」だけの指導もあり得ます。例えば、プロのピアニストを育てる、プロの野球選手を育てる、また、一流の数学者を育てる、というレベルになると、「いい、わるい」もしくは門外漢には分からない表現で伝えることが出来ます。ただし、学校教育では違います。我々は三十人、四十人の子どもを、確実に、ある一定以上の達成度を保証しなければなりません。従って、ハッキリと伝えられなければなりません。逆に言えば、ハッキリと伝えられないものは、指導要領の範疇のそとのはずです。

 もちろん、指導要領にはハッキリと伝えられない表現が多いです。例えば、理科だったら「自然を愛護する」などの表現がそれにあたります。でも、指導要領でハッキリとしていないならば、逆に言えば、それは学校・教師の裁量の範囲であるということです(言うまでもないですが、子ども保護者の理解を得られるという前提でですが)。従って、指導要領のその表現を、自分なりにハッキリと伝えられるようにするのは教師の務めです。(ちなみに、上記のことは、文部科学省の教科調査官出身の私の指導教官から教えてもらったことです)

 第三に、「みんなもれなく全員が出来る」ということを求めることです。これが、『学び合い』を成立させるには重要です。

 結果として、極めてシンプル目標になります。例えば、「クラス全員が二ケタの足し算を出来るようにする」、「クラス全員が逆上がりを出来る」などの目標です。そうなると、「そんなので学校教育か、塾ではないか」などと言うかたがいます。しかし、心配ご無用、子どもたちが全員達成する過程で、子どもたちが認知的にも情意的にも豊かな学習を生み出します。

 さて、目標設定をする際、算数・数学、体育、家庭科技術あたりは非常に簡単にできます。ところが、社会科国語あたりだと難しく感じる方がいらっしゃいます。そして、学び合っているが、成績向上に繋がらないという問題にぶち当たります。でも、それは『学び合い』が成立しているのに、そんなことが起こるというわけではありません。大抵、上記の3つのうち一つ以上が欠落している目標を与えているんです。

 その場合は、教師が一般的な目標子どもたちに与えているのでしょう。しかし、結局、テストの点数が低いと辛いのが現実です。ということは、虚飾をはぎ取れば、テストの点数を上げなければならないわけです。だったら、テストの点数を上げなければならないと自覚すべきです。だったら、社会科国語の業者テスト子どもたちにわたして、これを全員解けるようにせよ、と言えばいいんです。まあ一般的な方法としては、一般的な目標と業者テストを与え、「両方出来るようにせよ」と言えばいいんです。子ども帳尻を合わせます。ただし、注意点は業者テストの量はほどほどにして下さい。そうでないと、能力のある子も、それを書くという作業だけで1時間を費やします。そうなると、学び合えません。想像してください、出来る子に「1+1=」程度の問題を300問解かせることによって能力がどれだけ向上するでしょうか?ポイントを押さえる程度にしてください。

 もし、第三のポイントである「みんなもれなく全員が出来る」というポイントを本気で求めないと、『学び合い』を最初に始める能力のある子が自己中心的な行動をします。また、クラスの大多数の能力は高まっても、学び合いに入れない子どもを作り出します。結果として、その子以外の子どもの能力の高まりも限界をむかえます。全ての子ども(その中には、そのクラスで最も成績の高い子も含まれます)が限りなく向上するには、第三のポイントは忘れてはいけません。