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2008-07-25

[]みんなが、みんなで 22:42 みんなが、みんなで - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - みんなが、みんなで - 西川純のメモ みんなが、みんなで - 西川純のメモ のブックマークコメント

 おそらく、多くの先生方には「みんなが」と求めるのと、「みんなで」と求めることの違いなどどうでもいいかもしれません。でも、とても大事なことだと思います。

 同志は子どもに課題を求めるとき、「みんなが出来るように」と求めることも、「みんなで出来るように」と求めることもあると思います。おそらく、どちらか一方だけ、とうのは理論的にはあり得ますが、たいていの場合は、両者とりまとめて、曖昧に、その場、その時に合わせて比重を変えて求めているように思います。しかし、自らの管理しているクラスに対する信頼度によって、求める比重が変わると思います。

 私には西川研究室(チーム)という担任クラスがいます。その集団には能力的にも指向的にも多種多様な人がいます。ある年度には、(研究において)優秀な人ばかりになり、ある年度には、そうではない人ばかりになるということはありません。どんな年度においても、多様な人がいます。しかし、年度によって集団の力が強いときと、弱いときがあります。その原因は、その集団のメンバーの平均値ではなく、管理者(つまり私)の考え方と集団の質(個々人の質の合算ではありません。主に、集団の人数の多寡と多様性です)によって決まります。

 そして、集団の力を信頼できないと、「みんなで」という方法レベルのことを求める比重が高くなります。それが集団の力が信頼できるようになればなるほど、「みんなが」を求める比重が高くなります。そして、最高度に信頼できるようになれば、「みんな」を求めなくなり、ただ単に個々人の「結果」を求める比重が高くなります。

 『学び合い』によって、クラスの最低点は上がります(上がっていなければ『学び合い』をやっていないのでしょう)。しかし、一方、最高点も上がります。業者テストという極めて低レベルの課題だからそれが見えないだけです。もともと能力の高い子は、もっと高くなります。従って、業者テストレベルだからレンジは小さくなりますが。実際は、能力差はあります。そして、極めて能力の低い子はテストの点数は低いままである可能性を否定しません(ただし、多くの先生が考えるより少ないと思いますが)。

 それは、西川研究室でも同じです。もちろん、境界児は上越教育大学・大学院には来ません(私の教えた高校にはいましたが。)。しかし、大学・大学院(特に西川研究室においては)が求める課題の高さに比したとき、それが絶対に無理だと「思われる」学生さん、院生さんはいます。だって、多くの教科教育学の大学研究者が生涯に5報も書けない学会誌論文レベルの論文を、この二十年の歴史の中で半数以上の学部学生さんが達成し続けたのですから、そうでない学生さんがいたとしても当然です。

 さて、そのような子がいたとします。集団の力を信じられなければ、「みんなで」を求めるでしょう。なぜなら、「無理だ」と教師が先回りして答えを出しているからです。ところが教師が「みんなで」を求めれば、これは極めてきつい。「みんなで」を求められるより、もう一歩も、二歩も何とかしようと思うでしょう。その結果として、教師が無理だと判断した子どもが、教師の予想を乗り越えて出来るようになるかもしれません。(同志の多くはそのような事例を知っていますよね)。でも、そうやっても無理な場合があるでしょう。「みんなで」を求める教師は、そういう状態を想定しているからこそ、「みんなが」ではなく「みんなで」を求めています。

しかし、教師が駄目だと判断したとして、その根拠はどれだけのものがあるでしょうか?それが「ある」と言い始めたら、そりゃ、早晩、一斉学習になるでしょうね。「教師は最善ではなく、子ども集団に力がある。そして、そのような子ども集団を作るのが教師の仕事」と考えるのが我々です。その子が出来るか、出来ないかなんて、教師が分かるわけありません。子どもがいろいろやって、それで出した結果が最善だと私は信じます。ただし、自らのクラス(つまり私の場合は西川研究室)の力が信じられないと、そういうことが出来なくなり、方法に介入し始めます。

 もし、教師が先回りして「駄目だ」と判断し、それに合わせたものを求めたらどうなるでしょうか?一人一人は、その判断を教師に求め、一人一人がなんとかしようと思わなくなります。そして、教師の予想を超える結果は出ないでしょう。まあ、一斉学習よりはいくぶん最高点と最低点の幅は小さくなるでしょうが。

 しかし、本当に駄目な子がいたとします。それが悩みの種です。多くの同志が初期段階から充実段階に進む時、即ち「みんな」を徹底する際に悩む関門です。私は教師が「駄目だ」と判断して、「みんなが」というものをやめるのではなく、「みんなが」ということを維持することは大事だと思います。ただし、「みんなが」が達成しないときに、責めると言うよりも、「みんなが」を達成できる期待と願いを語ればいいことです。そして、成績は連帯責任ではなく、個々人を評価することは当たり前のことです。

 しかし、当然、「そんなこと言っても無理だよ」と訴えに来る子どもがいるでしょう。そんなとき、「じゃあ、○○さんは無理だから、みんなが出来るということを先生が求めなくなった方がいい?」と子どもたちに聞いてはいかがでしょうか?おそらく、『学び合い』が成立した子ども集団であれば、教師が「みんなが」を堅持する意味を分かっているはずです。もし、それを引き下げれば、次に除外されるのは自分ではないかと予想している子どもは多いはずですし、その子「たち」がいる集団は不健全であることは分かっているはずです。では、そのような子どもたちはどうするか?

 ある学校を想像してください。その学校には、地域にも鳴り響いた先生もおられます。一方、学級崩壊を繰り返す先生もおられます。そして、そこまで行かなくとも、周りの先生方のサポートによって、なんとかしている先生もいます。そして、大多数は、その中間の先生方で占められています。つまり、多くの学校の状態です。

 さて、校長が「みんなで」を求めたとします。そして、何故、「みんなが」ではなく「みんなで」であるかといえば、「学級崩壊を繰り返す人」がいるからであるとします。おそらく、管下の職員は校長の腹を察するでしょう。そうしたら、「学級崩壊を繰り返す人」に対して、どれほどの「みんなで」をするでしょうか?そして、そのような学校において「周りの先生方のサポートによって、なんとかしている先生」は安心できるでしょうか?

 一方、ある校長は「学級崩壊を繰り返す人」がいることを十分承知していますが、「みんなが」を求めたとします。なぜなら、「学級崩壊を繰り返す人」のクラスの子どもにも学ぶ権利があるからです。そして、「学級崩壊を繰り返す人」の可能性を信じているからです。

 さて、集団を信じられない校長ならば、おそらく、学年主任、教務主任、教頭・・・、とにかく誰かを校長室に呼び、こんこんと求めるでしょう。そして、その人が、ひーひー言って、ひずみは出るでしょう。教師に「そんなこと言っても無理だよ」と行ってくる場合は、大抵は、この事例です。

 一方、集団を信じられる校長の場合は、基本的に集団全員に「みんなが」ということの意味を説明し続けるでしょう。そして、個々人のレベルでは集団の中で折り合いをつけて「みんなが」を最後まで求め続けます。つまり、相対的に求めない人も、また、ある人が求めない時もありえますが、でも、集団として求め続けるのです。

 さて、3者の校長の、いずれの学校の職員になりたいでしょうか?私は最後の校長の下で働きたいと思います。

追伸 もちろん、最高の管理職は何も求めないが、職員集団がそれを求める学校に働くのがベストです。でも、そのような職場の場合、職員集団が管理職が「みんなが」を強く求めていることが、集団として了解しているときの場合だと思います。

[]埼玉の会 08:12 埼玉の会 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 埼玉の会 - 西川純のメモ 埼玉の会 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 来年のことを言うと鬼が大笑いすると言います。埼玉の会の来年の予定が決まりました。6月6日です。期待しています!

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 ある同志の最近のメモを再読し、ふと考えました。

『1学期の成果は十分でなくても、戻ろうとは思えません。おそらく疲れ切るほどの授業をしても、数字に表れるものだけを見ても毛を生やした程度のプラスαがあるだけで、さらに、この先もっとこうよくなっていく、こう伸びていくという期待が持てませんでした。というより、期待を持てる姿を描けていなかったというのが正しいです。まだ学習に取り組めない子がいますが、終業式まで「みんな」を語りました。語るに値する何かがある。このことが一番重要なのだろうと思います。』http://manabiai.g.hatena.ne.jp/so-ri/20080721

 ふと考えたのは、私がかって一斉指導をしていたとき、そして、現在でもしているとき、その時、私は何を期待しているかです。それは「私のレベルに近づけること」です。『学び合い』では「三桁の計算」の学習にさえも、「自分を超える何かがある」ことを期待できます。もう一つ、日本中の多くの優秀で真面目な先生(つまり、日本中の大多数の先生方)は、疲れ切るほどの授業をしているんだろう、と思いました。それを乗り越えられた同志のことを思い、また、乗り越えられずもがいている先生のことを思い、朝一番からボロボロと泣けました。