■ [親ばか]天才
私は学術論文の長い原稿を1、2分ななめ読みすれば、だいたい分かります。頭はバカになっても、そのあたりはプロですから。(現在、日本理科教育学会の学会誌編集委員長です。)
夏休みになって、息子の絵日記を毎日よみます。
論理の展開、また、用いられている語彙、親ばかですが天才を感じます。あはははは
■ [大事なこと]出来なかったら
真面目に『学び合い』に取り組んでいる、初期段階から充実段階へ移行している先生方が最も疑問に思うのは、「みんなが」を求めてそれが成り立たなかったらどうしたらいいかということです(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20080609)。例えば、子どもたちに1時間を与えて、ある課題をやらせます。ところが、ある一人の子どもが出来なかったとします。善意の先生は、一斉学習の「教師が方法のレベルを背負う」という意識から、もう1時間を与えます。そんなことが続けば、年間計画がグチャグチャになってしまうのは当然です。
そのような先生が理解していないのは、「みんなが」を成り立たせなければならないのは「みんな」の仕事であることです。教師の仕事は「みんなが」を求める「みんな」を育てることであり、そうなった「みんな」がやりやすい環境を整備することなんです。だから、与えた条件(例えば1時間でやるあげる)で出来なかった場合は、その子が出来なくても前に進みます。だって、「みんな」の仕事が未達成だったとき、その帳尻あわせを教師はすべきではないからです。本質的解決は、「みんな」が帳尻合わせをするようにならなければなりません。。そして、教師はそのために「みんなが」を達成することを求めるのです。そうすることによってのみ、専門家が境界児と認定した子どもが、算数で100点を獲得できます。
これを学校に置き換えましょう。
ある先生のクラスで問題が頻発します。保護者からのクレームも多く、その学年の先生ばかりではなく、他の先生もそれを気づいています。さて、校長のすべきことはどれでしょうか?
第一は、その担任を担外にすることです。状況によっては必要でしょう。でも、そいういう状況にまでほっておいたことが最大の原因です。そして、問題を起こす先生を担外にするということをし始めたら、際限がなくなる危険性があります。繰り返しますが、状況によってはしょうがないとは思いますが、下の下策です。
第二は、校長・教頭・教務主任がそのクラスに入ってサポートします。なぜなら、教諭の先生方はものすごく忙しく、それ故、それを求めても無理だろう、と「校長が思っている」からです。その校長・教頭・教務主任が力がある先生の場合、とりあえず問題を沈静化できるかもしれません。しかし、その先生へのサポートを常にしなければなりません。そして、周りの先生方(特に、その学年外の先生方)は、その先生の問題を解決するのは自分たちの仕事ではないと考えるでしょう。私は、その先生が問題を起こす原因は、「その先生」というより環境であると考えます。少なくとも、「その先生」の原因はあるかもしれないが、それを直ぐに解決出来ないとしても、「環境」によって乗り越えられると思います。残念ながら、これでは、その学校の環境は変わらないでしょう。
第三は、上記に書いたように、その先生の問題は、「みんな」の問題であると捉え、それを「みんな」に語り、求めます。そして、その学年ばかりではなく、職員全体でなんとかする集団を創り上げることに意を尽くします。そして、教育委員会からの問い合わせに対しては、毅然として説明します。私は、「その先生」の問題が完全ハッピーエンドにならなくとも、それが最善の道だと信じています。校長の仕事は、個々のクラスの問題を解決することではなく、個々のクラスの問題を解決できる集団を創り上げることです。そのためには、自分が手を入れてはいけないと思います。もちろん、それが必要な場面はあるでしょう。しかし、「それこそが校長の力量」とは考えず、「自分が力量がないから」と考えるべきだと思います。
■ [大事なこと]『学び合い』は厳しい
多くの同志が経験したことがあると思います。ちょっと前までは「最高!」と思っていた集団が、「????」と感じ始めます。もちろん、みんなが遊び回るわけではありません。テストの点数も前よりも多少下がったとしても、それでも平均値は全国平均よりも高いので、それほど悪くはありません。つまり、ものすごく悪くなったという訳ではないのです。しかし、何か変なんです。
例えば、『学び合い』のクラスなので、うるさいですし、子どもが立ち歩きます。でも、ちょっと前までとは違います。以前は心地よかった子どもたちのざわめきが、何故か不快に感じます。どう説明をして良いのか分からないのですが、何か熱心さが感じられない。小グループ内ではそれなりのやりとりをしているのですが、小グループを超えた立ち歩きが少なくなります。テストの点数からいうと、今までは全員が期待得点以上だったのに、一人二人が期待得点以下になります。ただし、その子のことを思えばしょうがないとも思えます。
さて、こんな時です。「まあ、そんなときもあるさ」と思いそのままにしておきます。そうすると、1週間もたたないうちに目も当てられない状態になってしまいます。教師は「なんでそうなったの?」と思います。
ポイントは、そんな状態になったときに目立つ遊ぶ子ではありません。ぽいんとは、そんな状態になったときにでも課題を達成し続けている、出来る子なんです。『学び合い』を維持している原動力は、教師の願いですが、その願いを一番敏感に捉え、それに沿った行動するのは子どもの多くは、出来る子です。
『学び合い』の初期段階では、業者テストでそこそこの点数をみんなが取るということは、とても大変なことです。だから、その子が動きます。ところが『学び合い』がある程度、成立し始めると、その子が動かなくても、手を抜いても、そこそこの点数をとることは可能となります。そうなると手を抜き始めます。教師が「???」を感じるのは、その状態です。出来る子の行動を見ると、課題はちゃんとやっています。だから、教師は見落としがちです。しかし、よく見ると、出来る子が周りに関わる言動は低下しますし、関わる相手は特定になります。この段階で教師が気づき、「締め」ないと、あっという間に、それが周りの子どもに広がります。それが
我々生物は、本源的には楽をしたがります。こりゃしょうがない。『学び合い』が成立しようが、しまいが、どちらにしても本性は代わりません。そして、多様な人と関わるよりは、ごく少数の人と関わる方が楽であるというのは、サルも持っている我々の本性です。『学び合い』をすると「やったふり」をしなくなる、ということはありません。正確に言えば、『学び合い』では「やったふり」が出来ないのです。なぜなら、「どうやったか」というプロセスを評価するのではなく、「何を達成したか」という結果を評価します。もちろん、プロセスを心の中では評価します。でも、厳しく評価するのは結果です。プロセスは「ふり」は出来ますが、結果は「ふり」は出来ません。『学び合い』でいくら高まっても、「ふり」でクリアーできるようになれば、やがて「ふり」をし始めます。だから、常に子どもには高い課題を与え、厳しく評価し続ける必要があります。
さて、高い課題はどのような課題を与えるべきでしょうか。子どもたちには能力差が大きい。能力の高い子どももへとへとになるような課題を与えたら、クラスの半数近くの子どもにとってはどうしようも無くなる危険性があります。能力の低い子どもに合わせると、能力の高い子は「楽」をしはじめます。優れた教師は、それを乗り越えるような課題を考えられることができます。しかし、全ての教師に、全ての時間を求めるのは無理です。優れた教師であっても、発展的な課題の場合は全ての子どもに対応できる課題が出来たとしても、単純な基礎の部分はそれが難しくなります。一斉学習では、一人一人にあった課題を教師が用意するというようなことをしますが、そんなこと毎時間対応できるわけありません。ではどうするか。私の知る限り、最も優れた課題は「みんなが」なんです。それによって、能力の高い子どもにとっても「楽」の出来ない課題であり、かつ、能力の高くない子どもはサポートを受けられます。つまり、能力差の帳尻を教師一人でやるのではなく、クラス全体でやった方が良いに決まっています。
「みんなが」というのは子どもにとって、大変な課題です。そして、教師にとっても大変課題です。管下の人に大変な課題を求めるられるか、否かは管理者としての腹が問われます。
追伸 昨日、ほぼ4ヶ月ぶりにゼミメンバーにしっかりと「お説教」をしました。その際には、本日のメモのこと、さらにそれ以上のことを30分近く語りました。基本は「みんなが」が崩れると何が起こるか、ということです。「みんなが」を求めることは、私でも正直、ドキドキします。しかし、それを求めることが大事だと考え、お説教をしました。本メモもゼミ生に対するお説教の続きという意味もあります。今のゼミ生に「みんなに」を求めたら安易に流れそうです。なにしろ「みんなが」を求めても安易に流れそうになっているのですから。でも、その第一の原因は、私です。教職大学院への制度移行、免許プログラムの学生さんの教員採用試験を勘案し、上記で否定している先読みしてしまい「みんなが」を求めることが甘かったことが原因です。こういうときは、率直に謝り、原理原則に戻ることです。