■ [大事なこと]信心
この前の秋田で質問されたことの中に、「何故、西川先生は子どもを信じられるのか?」というものがありました。それに対して、以下のように説明しました。
多くの人は必死に神仏にお願いします。しかし、願ったからといって成就するとは限らないことは知っているでしょうね。では、何故、それでも願うのでしょうか?それは、「それを願っている」からです。そして、自分にはそれを成就させる力がないことを知っています。それ故、自らにはない力をもっている「かも」しれない神仏に願うのです。私はよりよき教育を本気で願い、そして、自分にはその力がないことを知っているからです。と語りました。
追伸 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。」と歎異抄にあります。自力本願の気持ちがある限りは、本願他力はかなわないものです。親鸞さんは念仏を信じる理由として、「法然上人にだまされ、地獄に落ちても構わない」とおっしゃたそうです。子どもを信じてみてはいかがですか?なお、『学び合い』のご本尊である子ども達は、極めて御利益があることは科学的に実証づみです。
追伸2 毎度、この種のことを書くたびに追伸しますが、私自身は葬式仏教以上の信心はありませんので。
■ [大事なこと]不安な同志へ
『学び合い』は革命的に今までの考え方と違います。その姿は、既存の考えからすればクレージーです。これで大丈夫かと不安になる同志もいるでしょう。しかし、私は断言します。『学び合い』は完全です。少なくとも、それを超えるものを私は知りません。こんなことを書けば、嫌われると分かっているのですが、断言します。ただし、馬鹿げた宗教ではありませんので、説明します。
古典力学の全てはF=mαというたった一つの式に帰結します。これを3次元に拡張し、微分や積分をすれば、古典力学の全てが導かれます。『学び合い』も同じです。現在我々が実践していること、そして未来に実践するであろうことは全て、学校観と子ども観に基づくものです。従って、『学び合い』が正しいのか否かは、学校観と子ども観を吟味すれば良いだけのことです。
『学び合い』では、学校で学ぶ意味を、多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決することであるとシンプルに看破しています。さて、不安な同志にお伺いします。これ以上の学校教育の目的を知っていますか?学習指導から生徒指導、特別支援や評価、はては「お受験」にも対応した一貫した目的を知っているでしょうか?あるなら教えてください。
『学び合い』では、子ども達を有能と信じます。これを信じられない教師は多いです。その方々と議論するとき私が言うことは、現状でどれほどのことが出来るか?ということです。厚顔無恥な一部教師を除けば、大抵の教師は、自らが出来る限界をよく知っています。そして、自分がやっていることは特別凄いことをやっているわけではなく、そして、一生かかっても神様のごとき名人教師にはなれないこともよく知っています。そこを確認した後に、子ども達の中にはかなりの能力の子どもがいることを確認します。そして、子ども達集団が有機的に結びついたとき、一人の教師には絶対なしえないことが出来ることの理屈を説明します。最も簡単な説明は、どんな名人教師も子どもも、1日は24時間であるという厳然とした事実です。つまり三十人がいれば、三十倍の時間をかけられることを確認します。
上記のことは分かっているはずです。
それを認めて発展させたのが現在の『学び合い』です。理屈は簡単です。多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決することが学校教育の目的であり、これによって学習指導も生徒指導も特別支援も・・・がなりたつとしたら、それをやるべきです。学校教育の大部分を占めているは教科学習です。教科学習ですべきです。多様な人と折り合いをつけることを学ぶならば、折り合いをつける時間を確保しなければなりません。そのためには、教師が仕切る時間を極限まで削るしかありません。そして、より多様な人と学べる場を提供しなければなりません。この十数年かけて、我々は「これは教師の仕事だ、教師しかできないことだ」と思いこんでいたことは誤りであることを学術的にも実践的にも明らかにしました。そして、多種多様であればあるほど、何故、素晴らしいかを学術的にも実践的にも明らかにしました。その過程が知りたいならば、過去の本を読んでください。そして、その根拠となっている学術論文のデータをお読み下さい。我々の学術論文はかなり読みやすく書いていると自負しています。
不安になったら、せめて以下のことを考えてください。
第一に、『学び合い』の個々のことではなく、考え方のレベルで是非を考えてください。
第二に、「じゃあ、『学び合い』より一斉指導の方が良いのか?」とお考え下さい。一斉指導の方が良いと思うならば、『学び合い』はおやめ下さい。残念ながら、「今は」『学び合い』は理解できないでしょうから。でも・・・
おそらく、『学び合い』が正しいことはおわかりなんですよね。では、どうするか?そりゃ、人と議論しましょう。そして、なんとしても時間を作って他の同志のライブを見ましょう。百の理屈より雄弁に、子ども達が教えてくれます。そして、もがいて、自分の出来ることをやればいいのです。『学び合い』の学校観や子ども観は到達点ではなく、方向性なんです。