■ [大事なこと]私の変わっている点
おそらく、私は変わった教育研究者だと思います。というのは、教育の世界では、「子どものために、もっと、もっと努力せよ」と求めるのが一般的です。ところが私は「もっと簡単に、もっと楽に」と主張しています。そして、「教え子よりも、家族を大事にしなければならない」と主張しています。
ただし、自らのために、みんなと一緒に出来ることをしましょうと言います。いずれにせよ、その人の家族を犠牲にするようなことを求めたことは一度もありません。
例えば、学校公開は大変だと思われています。でも、私は紀要などを冊子を作る必要はないと言います。当日の授業だって準備の必要はありません。当然、当日の授業を別なクラスでやってみるなどナンセンスです。公開の日の前日にやった授業の「次」をやればいいのです。授業は生き物です。数ヶ月前に、その日の授業はどんな内容であるなんて分かるわけありません。参加人数を誇る必要はありません。動員をかけた数百人の参加者より、自らの意志で参加する数十人、いや、十数人の方がずんと価値がある。と、考えると、凄く楽でしょ。
『学び合い』の会だって、そうです。3人ぐらいの仲間がいて、無料の場所を借りればいい。まあ、ペットボトルのお茶と紙コップとお菓子を100円ショップで買っておけば十分です。その3人が自分の実践での子ども自慢をすればいい。冊子の必要なんてありません。最悪、自分たち以外の参加者が数名でも良いじゃないですか。自分の教え子自慢を聞いてくれる人がいたならば、数千円の茶菓は高くはない投資です。だって、下手な歌を歌いに、カラオケではもっと多くの金を使っています。あはははは。と、考えると、凄く楽でしょ。
そこまで肩の力を抜いて、それでもいいんだと思えばいいのです。そして、それから、どれだけ面白くできるかは「楽しみ」で「義務」じゃありません。それに、自分が思う以上にニーズがあることに驚きますよ。
私が「きつい」と誤解されるのは、「普通はとても難しいこと、だから、やらなくてもいいこと」が実は、それほど大仰に考える必要はなく、むちゃくちゃ難しいことではなく、出来ることをやれば出来る範囲のことは出来ることを整理して語るからだと思います。
私にとっては当たり前のことなのですが、私のような教育研究者は極めて希だと思っています。だから、誤解を受けるのが辛いのです。とほほ
■ [大事なこと]課題
『学び合い』で課題が難しいと言われます。その通りだと思います。しかし、難しさの意味が一般の「課題の難しさ」と『学び合い』では違うと思います。
よくある教科の人たちの会で課題が話し合われると、その教科以外の人にはちんぷんかんぷんな議論が交わされます。私も学者の端くれですから、一般の人にはちんぷんかんぷんな議論をしようとすれば出来ます。でも、『学び合い』ではそれはアウトだと思います。『学び合い』では課題を達成するのは子どもなんです。だから、子どもが分からない課題はアウトなんです。
教科の会で交わされる課題の議論を完全否定するつもりはありません。圧倒的大多数は意味ある議論です。でも、それを子どもに伝えられるように語られないとしたら、『学び合い』に関しては意味ありません。『学び合い』における教科の力とは、教科の深みを子どもに語れる能力だと私は思っています。
「教科の大事な部分ではあるが子どもに語れない」、「子どもに語れるが教科としては浅い」を比べた場合、後者の方が望ましいと思います。そして、前者を追求するより、後者を通して、学校教育の意味に繋げることにエネルギーを費やす方が生産的だと思っています。