■ [親ばか]父の日
本日は父の日です。家族で祝杯を挙げました。息子は私の似顔絵を送ってくれました。裏には、以下が書かれています。
『おとうさんへ
いつも「ピンプクー」っていってくれてありがとう。また、毎日おしごとをがんばってくれるから、ごはんがたべられるよ。これからもがんばってね。』
息子は小学校3年生です。いったい、あと何年、似顔絵をプレゼントしてくれるのだろうか?高校3年まで続いたら不気味だけど、そうだったら、それは幸せだと思います。
追伸 今、息子がはまっている合い言葉があります。「丸いの大好き」と息子が言うと「ピンプクー」と私が応え、続いて「ピンピンプクプク」と息子が言うと「ピンプク、ピン」と私が応えると、ニコニコ喜びます。彼にとっての、愛情確認みたいなものです。おそらく、数十年後の私自身が、このメモの「ピンプクー」の意味が分からないと思うので、追伸です。
■ [大事なこと]教師の職能
圧倒的大多数の善意の教師と私の思っている教師の職能は全然違います。たいていの場合は網羅的な知識・技能が必要だと思います。授業記録や指導案の書き方は基礎的だと思っています。そう思っている先生方が善意である故に辛いのですが、私はそうは思っていません。『学び合い』に至った考えと同じです。たしかに、それの有効性を全面的に否定するわけではありません。しかし、それが有効である場面は、それほど多くはないのです。教師が勤める学校は千差万別、教える教材は千差万別、教える子どもは千差万別です。だら、個々の知識、個々の対応を覚えるとするならば、そりゃきりがない。
じゃ、何が必要かと言えば、
私の考える教師に職能は以下の三つです。網羅的、箇条書き的な普通の教師の職能とはかなり違い、静的ではなく、動的に職能をとらえています。
1)子どもや親のせいにしない。確かに、それが原因なのかもしれないが、それを言ってはおしまい。
2)尊敬すべき、先輩、後輩を捜し、その人といっぱい雑談をする。見いだす方法は、子ども「たち」、地域、保護者に聞けばいい。そして、地域、保護者とのつながり方も先輩・後輩から学べばいい。
3)まねられるところはまねる。まねられないところは、まねる必要はない。今の自分のままで、出来る授業はある。
補足します。
第一の職能がないと、教師の進歩は止まります。教師が求められる能力は多種多様です。例えば偏差値70以上の子どもたちを相手にするのと、暴走族だらけの 子どもを相手にするのとでは、求められる対人能力も教材の力も全く違います。小学生を相手にするのと中学生を相手にするのでも違います。また、同じ学校、 同じレベルの子どもを教えるのだって、自分が二十代前半であるときと、四十代後半では全く違います。学問的にそれを抽象化することは出来ますが、理論物理 学者が車を作れないのと同じ理由で、現実の教室では無力です。結局、教師にとっての最高の教師は「子どもたち」だと思います。子どもたちに教えられなが ら、常に学び続けなければならないわけです。
若い先生の場合、過去の自分の経験や、他人の経験を知りません。そのため自分を相 対化できません。さらに、年を経ると、失敗しても、その失敗を目立たなくするノウハウは確実に増えます。その結果、職員室の中で、あたかも自分だけが駄目 のように感じてしまいます。いえいえ、中堅・ベテランでも追い詰められると、自分だけが駄目みたいに感じます。
でもね。今まででは通用しないのは、ごくごく当然です。子どもも変わり、自分も変わっているのですから、調整しなければならないのは当たり前です。これは、『学び合い』 だって、一斉指導だって同じです。それが嫌になると、子どもや保護者のせいにしたくなる。人情です。でも、このブログを読んでいる方々だったら、そうした 先生がどのような先生であるかは「よ~~~~く」ご存じなはずです。もがくしかありません。もがくのが当たり前です。偉そうなこと言っている私も「当 然」、一杯失敗し、落ち込みます。でも、もがくから成長もあります。少なくとも、もがかなければ、現状維持はあり得ません。
で もね。人の能力なんて、たががしれている。もがいても解決できないことが殆どです。そんななかでもがき続けるなんて、神仏でなければ出来るわけありませ ん。当然です。では、子どもや保護者のせいにして合理化する教師になるか、成長しつつけることの出来る教師になれるか、その分かれ目は何かといえば、それ が2番目の職能です。これって大事です。自分が分からないこと、困っていることを、解決する方法をこともなげに教えてくれる人っているんですよ。「あ、そ れね。あははは。知らない人は、なやむよね。それってね・・・・」と教えてくれる人っているもんですよ。答えを知っていなくても、一緒に考えてくれる人は います。そして、何よりも愚痴を聞いてくれる人はいます。
教えてもらえる、一緒に考えてくれる、そして愚痴を聞いてもらえる。 そこで得られる最大のものは何か?そりゃ、もう一度、自分で考える勇気をもらえることなんです。教えてもらえることでさえ、結局、自分の場面にそのまま使 えるものではありません。やっぱり、子どもたちという教師の教師の前で実践して、自分でもがくしかありません。これは『学び合い』も同じです。
私も落ち込んだとき、いつまでも愚痴を聞いてくれた先輩教師が、十数人の職場でしたが片手以上いました。職員室の横のお茶飲み場では足りない時は、その愚 痴を聞いてくれるために酒場や自宅で「奢って」もらえる機会が、週1回以上はありました。今から考えると、驚異的に恵まれていたと思います。でも、今の職 場は年齢バランスの崩壊や、様々な要因で私のいた頃とはだいぶ様変わりしていると思います。その場合は、あらゆるチャンネルで繋がることが大事です。(で も、本当は『学び合い』が広がれば、職場が第一の場になると思いますが) さて、自分が悩み、人と相談し、再度自分で考えるとき重要なのが第三の職能です。溺れている人は浮いているものに必死にしがみつきます。でも、本当に重要なのは自分で泳ぐことです。あくまでも主体は自分であることを忘れてはいけないと思います。(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20090107/1231314627)
まあ、テクニックは全く不必要かと言えば、必要なテクニックはあります。それは「虎の穴」で検索していただければ、私の考えるテクニックを調べることが出来ます。最近、ゼミ生に、ブログを勧めていますが、それは「内容・時間調整」に書いています。
■ [ゼミ]志
上記の2番目の職能で必要なことは志です。私はゼミ生と語るとき、おのが教員採用試験の合格レベルで留まるのではなく、おのが授業能力レベルで留まるのではなく、日本の教育レベルで語りたいと思います。それで語ることが、より優れた人と、より多くの人と繋がれるキーだからです。私はHPに西川研究室の目的を以下のように書きました。おそらく、多くの人には「暑苦しい」と思われるでしょう。しかし、実は折り合いをつけてこれを実行することが最も有利な生き方だと私は思います。
『本研究室の目標を「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、教育を改善しよう」としました。
おそらく皆さんの本当の希望は「自分の心に響き、自らを高め」であると思います(単に修了・卒業したいレベルの人は、西川研究室に所属しよう何て思いませんから)。実は私もそうです。しかし、そのレベルを超えた目標を、研究室の目標として掲げることは重要だと考えています。
世の中には倫理学というのがあります。大学生の頃、それを読みあさった時があります。でも、カント、ヘーゲル、西田は全く分かりませんでした。相対的に分かりやすかったのは和辻です。でも、それでも分かりませんでした。それいらいずっとご無沙汰でしたが、「利己的なサル他人を思いやるサル」という本はどんな倫理学の本より面白く、ためになりました。それによれば、サルにおいても倫理的と思われる行動が見られます。そして、その行動が発生する理由は、その行動によって間接的に利益を得るからです。つまり、弱い仲間を助けたサルは、その群れの他のメンバーから「お返し」が来るんです。なぜ、そんな「お返し」をするかといえば、自分が弱い立場になった時の「保険」みたいなのものです。カント、ヘーゲル、西田のように、どっかに純粋無垢な「善」があるように書かれるのではなく、生々しく、かつ、凄く納得出来るものです。我々は、学び合う能力は本能の中にあると考えています。だから、ゴチャゴチャ言わなくても、自然に発生するものだと信じています。上記の知見は、教師がゴチャゴチャ言わなくても、自然に助け合いが起こるであろうと期待出来ることを証明するものだと思います。
しかし限界があります。別な猿学者の「ケータイを持ったサル」という本によれば、サルが自身の群れと感じる範囲は極めて狭く、基本は親兄弟で、広がっても普段見知っている集団を越えることは無いそうです。そして、現代の「ひきこもり」や「傍若無人の若者」は、人間の本能の中に組み込まれた「群れ」の範囲がサル並だと考えると、至極当然に解釈出来るとしています。おそらく、これは若者に限らず、人間全般の本能の限界と考えるべきなのでしょう。例えば、年配のおばちゃんが、人の迷惑考えず大声を出しているのは、自分が話している以外の人を、「群れ以外」と分類し、人と認識していないからです。
私はサルと同じように、自身の損得と、社会の損得自身を冷静に分析し、社会の損得に矛盾しない自分の損得を設定することは「得」だと思います。つまり、みんなを助けるという社会的要請に応えることが自分の得になっていることは、サルと同様に人間でも正しいと思います。ただし、人間の本能に組み込まれている「みんな(もしくは群れ・社会)は、サルと同様に親兄弟、もしくは見知った狭い集団レベルが限界なのだと思います。教師の例で言えば、せいぜい自分の学校の職員集団レベルで、それを越えた集団を群れと認識することは困難で、従って、郡市レベル、県レベル、日本レベルの集団に対する倫理的な行動をすることは困難なのだと思います。それを越えられるのは、本能ではなく、教育によらねばなりません。
私の大学院の同級生に「教材レベル」の修士論文を書いた人がいます。修了した時に、「お前が作った教材をお前自身が使うの?」と聞きました。彼の返答は「使わない」とさばさばと答えました。つまり、彼にとっての、その教材は自分が修了するため「だけ」の意味しかありません。仮に、自分が使ったとしても、それだけでは、自分のため「だけ」の意味しかありません。ただし、これは教材レベルの研究に限りません。もし、自らが2年間かけてなしたものを自らが使わないならば・・。仮に、自分は使うとして、それを他の人に知ってもらえないならば・・・。私の知る限り、2年間の研究が終わったとたんに、「思い出」の中に死蔵される研究が多すぎるように思います。そして、そんな人は「損」だと思います。
私には、自分のため、家族のため、そして自身の狭い群れである西川研究室のためという、相対的に狭い範囲の目標があります。しかし、同時に「専門職大学院のため」、「上越教育大学のため」、「学会のため」、「地元教育界のため」、「日本の教育界のため」等々の様々なレベルの目標があります。そして、それぞれに矛盾が生じないよう、相互に関連づけています。そのような多層的な目標を持つため、様々な人とリンクを持ち、かつ、その援助を得ることが出来ます。その結果、とても「得」をしています。
一方、比較的狭い範囲の群れのための目標しか持たない人もいます。人それぞれですから、完全否定するわけではありませんが、「損な生き方だな~」と思います。そんな「自分」だけの視点でしか捉えられないならば、結局、周りの協力も限られたものです。色々な場で、短期的には要領よく立ち回っているため、長期的には損をして、そのことに気づいていない人を少なからず見てきました。要領よく「美味しい仕事」だけをかっさらって、「大変な仕事」をうま~く逃げる、そして口先だけは当たりがいい人っていますよね。そういう人って、本気でそれでOKだと思っているようです。でも、ちょっとの期間つきあえば、そのような人の「底」が見えます。そうなると、そういう人とのお付き合いは要領よく避けます。だって、そんな人とつきあうことは「損」ですから。
以上の理由から、本研究室の目標を「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、教育を改善しよう」としました。是非、皆さんの中で、この目標を基に、多層的な目標群を設定して欲しいと思います。』
追伸 以上二つはゼミ生のブログ(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/cyoriso/20090621/1245574629)を読んで書きたくなりました。