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2010-10-17

[]オタオタ 21:34 オタオタ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - オタオタ - 西川純のメモ オタオタ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ゼミ生は最近の私の行動を以下のように記載しています(http://ameblo.jp/chiba-manabiai/entry-10677740916.html)。ゼミ生はありがたいもの、私を実際以上に解釈してくれる。が、本当はオタオタしているのです。何故オタオタしているかと言えば、私の想定している範囲を超えそうなのです。もちろん、今までも個人単位では想定を越える成果を出してくれています。いや、殆どのゼミ生がそれを達成しています。が、その想定を越えそうなのです。

 第一に、ゼミ生が私の想定を越えるのは修士2年・学部4年の12月頃です。つまり、最後の最後の段階です。その頃にはオーラが出て神々しく感じます。が、修士1年・学部3年でも、そのオーラがちらちら出始めているのです。

 第二に、集団としてオーラを発しています。これを狙って教職大学院のシステムを構築したのですが、それが現実となり始めています。これは嬉しいが、怖い。個人としてのオーラは、私が必死になれば追いつける。でも、集団としてオーラを出し始めれば私が追いつける自信はないのです。

 そうなれば、私は自らに「日本を変える」というレベルの悪巧みを考えるということしか、彼らを制御不能です。

 偉大なゼミ生の力によって、私もより高い高見に至れそうです。嬉しい。

[]科学的研究 21:13 科学的研究 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 科学的研究 - 西川純のメモ 科学的研究 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は理学部の生物で生物物理学を専攻しました。私の読んだ本の殆どは数学書と物理学書です。それらは難しいですが、左から右、上から下へ読めば、分かるようになっています。が、教育の大学院に行きました。授業で話されること、授業で読む本、失礼ながら噴飯ものです。だって、「かもしれない」、「と、思われる」という事を前提にして、「かもしれない」、「と、思われる」が積み上がっているのです。授業では「探究」は「探求」ではないことをシュワブやブルーナーの文献で吟味するようなものです。私にはどうでもいい訓詁学としか思えません。数学や物理の文章や議論とは全く別モンです。とても、確かである、と確信は持てません。生物学の知見は、数学や物理ほどには演繹は効かない。でも、様々なデータから帰納的に出される結果は、十分に確からしいと思えます。

 私の勉強不足だと思って、それから毎日十時間以上、教育学の古典と言われるものを読みました。が、結局、「かもしれない」、「と、思われる」という事を前提にして、「かもしれない」、「と、思われる」が積み上がっているのです。私は教育研究を馬鹿にしました。そして、教育研究は自然科学研究のようにあらねばならない、と思いました。

 今から四半世紀前の大学院時代、学習を徹底的に操作的定義し、数値化しました。ま、簡単に言えば、テストの点数を学力と定義して、その点数を吟味したのです。そして、統計学を駆使して分析しました。

 当時の教科教育の定量研究は未熟でした。条件統制も成されていない二つのクラス(つまり40人程度)のパーセント比較で論を進めていたのです。それに比べれば段違いです。ですので、大学院の研究がいきなり複数の学会誌に掲載されたのです。大学研究者となってからは、私が大型コンピュータを駆使して、統計分析の知識があることを駆使して、論文を書きまくりました。当時、友人からは、「どの学会誌を見ても、お前の論文がある」と言われたものです。

 が、むなしさを感じました。以上のような研究をしても、「不十分だ」ということは言えたとしても、「どうしたらいいか」が出せないのです。そんなときに認知心理学に出会えました。人間の頭の構造をコンピュータに置き換えて分析する手法は魅力的でした。そして、既に明らかにされた認知心理学の知見は、そのまま教科教育に適用可能です。なにより魅力的だったのは、数値化をテストの点数以外の多様なものに置き換えることが出来ました。そして、さらに一層、論文を書きまくりました。

 多くの学会から賞をいただきました。でも、癒されません。私が高校教師だった頃の経験に置き換えれば、とても役立つ研究とは思えないのです。医学の研究は病気を治せることが出来ます。でも、私の研究で、私のかつての教え子を救えるとは思えないのです。冷静に考えれば、大学院時代からの私は、自分が学んで納得していた理学に教育研究を矮小化していたように思います。つまり、数値化しやすいもの「のみ」を対象としていたのです。そして、教育の本質はそんなものでは覆いきれない。

 十数年前から、徐々にシフトしました。とにかく現象を丹念に観察し、考えるのです。結果として、現在、西川ゼミがやっている研究手法になりました。つまり、現象を定性的に分析し、大まかなカテゴリーを設定し、数値分析をする。その結果を基に定性的に考察をするという手法です。でも、これって自然科学の最先端の手法だと思います。物理学は数学的に記載されますが、それは手段に過ぎません。本当の最先端は、定性的なものです。私の学部の指導教員から教えてもらえました。一流の研究とは、それが「ある」と明らかにすること。二流の研究とは、それが1なのか2なのかを明らかにすること。三流の研究とは、それが1.1なのか1.2なのかを明らかにすること、と。

 その次元で研究が理解できれば、私がかつて馬鹿にしていた教育の古典が意味を持ち始めました。長々しい文献の中から、その本質的なメッセージを理解すれば、その当時の人たちにとっては革命的な意味を持っていることが分かります。

 ユークリッド幾何学は平行線公準を変えただけで、非ユークリッド幾何学に変貌します。『学び合い』も、教育観と子ども観を変えただけです。それだけで豊かな新たな地平が開かれます。

[]麻生さん 19:06 麻生さん - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 麻生さん - 西川純のメモ 麻生さん - 西川純のメモ のブックマークコメント

 我が家では土日に高速道路を使って小旅行をよくやります。本日も長野に行きました。高速道路を降りるとき、土日特別料金が掲示されます。その度に「麻生さん有り難う」と思います。単純です。