■ [親ばか]4れんちゃん
本日は、イブ前夜祭です。明日はクリスマスイブ。明後日はクリスマスです。そして明明後日はクリスマス後夜祭です。ということで4日間連続家族パーティです。が、クリスマス後夜祭ぐらいになると、ごちそうも食傷気味になるので、質素な後夜祭になると思います。
■ [う~ん]議論がしたい
定期的に書いていることです。超長文です。
私は『学び合い』に対して疑問を持つ方と、建設的な議論をしたいと願っています。しかし、今までそれは叶いませんでした。愚かな人は感情論に陥り、紳士は安易な合意に走る。残念な限りです。個々人の問題とは思いません。教育という世界の文化なのでしょう。理学部で科学的な議論をトレーニングされている方も、一度、教育の世界に入るとそれが出来なくなるのですから、根深いものです。なにしろ大学に籍を置いている人でさえそうなんですから。
私の経験する非論理的な議論のタイプを紹介しましょう。繰り返しますが、個々人を非難する意図はありません。このようなタイプが一般的なのは、個人の問題では無く文化の問題なのだと思います。
第一は、事実では無く人・組織によって説明する。
このタイプの方の場合、私は「その根拠は何ですか?」と聞いていくと、「●●先生がそう書いている」とか「教育委員会がそう言っている」と言います。そこで、「●●先生(または教育委員会)がそう主張される根拠は何ですか?」と聞くと答えられなくなってしまうのです。
第二は、根拠となるものが、現実の教育と乖離している方です。
例えば脳科学。脳科学は素晴らしい可能性を持っています。しかし、それを日々の実践に結べる段階には移行していない。だから、脳科学を持ち出す教育の言説は、大抵は啓蒙書レベルのデータを飛躍して教育に適応しています。
生化学がいくら発展しても、生理学、病理学の発展が伴わないと、医学には適用できない。だから、まずは医学での実証的な研究が必要です。
このタイプの方の根拠の特徴は、啓蒙書レベルのデータに終始している点です。決して、そのもの(例えば脳科学)の学術論文・学術書を引用し論拠することはありません。このタイプも第一のタイプと同じで、権威のもとに思考停止しているのです。
第三は、論理的な議論というものが何であるか分からず、ディベートのような勝ち負けだと思っている人です。
この人の場合は、「その根拠は?」と聞いても、答えません。答えたとしても、自分の旗色が悪くなると、あっさりとその根拠を翻します。そして、翻したことを認めません。結果として、議論の前提があっちえいったり、こっちへ行ったりします。この手の人と議論をするのは本当に疲れ、実りがありません。
論理的な議論の場合は、必ずしも一方が正しく、他方が誤っているという結果にはなりません。何故なら、前提が違えば、最終的な結果が違うのですから。だから、最後まで平行線でもいいのです。その議論の末に、それぞれの前提がどこに違いがあるかが分かればいいのです。
第四は、感情的になるタイプの人です。
必ずしも本気で感情的になっているとは限りません。議論に勝つための手段として感情を利用します。恫喝したり、人格否定をします。議論と全く関係の無い話題を出し、議論を混乱させます。
このタイプの人は、人間性を疑いたくなります。
さて、私の議論の手の内をさらします。非常に単純で普遍性があります。『学び合い』は学校観と子ども観が中心ですが、たいていの場合は子ども観レベルで論破できます。プロセスは以下の通りです。
最初に前提の確認です。同じ前提であるならば、これを飛ばすことが出来ますが、そもそも『学び合い』に疑問な方なのですから絶対に確認が必要です。
私は、「学習指導要領の示す最低学力と、居心地のよい学校を一人の例外なく与える」ということを確認します。ま、大抵は否定されません。次に、『学び合い』ではそれを最優先事項であることを述べて、相手方がそれを超えるものがあるかを聞きます。これまた大抵は否定されません。否定されたならば、そのことが最優先である理由を聞いて、平行線だったら議論はそこで終了です。結論は、前提が違う、ということです。
あとは子どもの多様性を確認します。これまた大概は認めます。そして、その多様性を一人の教師では対応できないことを述べます。これは1校時を人数で割れば不可能であることは自明です。従って、「学習指導要領の保証する最低学力と、居心地のよい学校を一人の例外なく与える」を実現するには、教師が教えるのでは無く、子どもが支え合える集団作りをすべきだと述べます。これで一応の証明です。
しかし、ここで反論が出ます。典型的な例を挙げましょう。
まずは、子どもが教えられるわけは無い、という反論です。それに対しては、大抵の授業は成績中位もしくは中の下に合わせていることを確認します。そして、日本の子どもの2、3割が塾・予備校・通信教材・家庭教師によって教えられていること、高学歴の保護者が多い事実を上げます。
次に、子どもの発想だけでは高い次元にいたれない、という指摘です。この場合は、教師が指導すれば高いレベルに至れる子もいるけど、そうでない子どもが多いことを指摘します。そして、その子にとってその授業中の苦痛を想像させ、「学習指導要領が示す最低学力と、居心地のよい学校を一人の例外なく与える」ということに矛盾することを述べます。最後に、クラス全員が学習指導要領の示す最低学力が保証されたとき、本当に次の段階に進めることを述べます。
次に、教師は教えるべきだ、という指摘です。この場合は、教育基本法、学校教育法、学習指導要領のどこに板書し、発問すべきであると書かれているかを聞きます。そして、教師の仕事は教えることでは無く、子どもが成長させることであることを確認します。従って、成長するために板書、発問することが有効であれば、それを使うべきだが、そうでないならば使うべきでは無いことを述べます。
以上のような質問が『学び合い』に対する反論の大部分です。それに対して、色々な反論をするでしょう?それに対する反論の仕方は簡単です。「じゃ、今のあなたは、全員それを成り立たせていますか?」です。そうすれば、曖昧な表情をして、反論に勢いが無くなります。次に、「では、何割ぐらいの子どもに成り立たせることが出来ていますか?」と聞きます。そして、「じゃあ、子どもたちと一緒にやった方が「まし」ではないですか?」と言います。
学校観レベルの議論は少ないですが、重度の障害を持つ子、虐待されている子どものように最後の一人の教育をどうすべきかのときに必要になります。そして、へき地小規模校の教育において必要となります。でも、大多数は上記に書いた通りのルーティーんな議論、つまり、大脳を殆ど使わなくて良い議論で終わってしまうのです。それを超えた議論が出来れば、私自身が賢くなれるのですが・・・・・
教育に関して論証するとかエビデンスという言葉が安易に使われているようです。
そもそも論証には理論と実験の二つがそろって論証になるのです。理論だけあっても、実験だけあっても論証にはなりません。しかし、残念ながら大学では前者になりがちで、学校現場は後者になりがちです。大学と現場が連携しない限り、論証にはなりません。
次に、理論と随筆の違いが分からないようです。理学部から教育研究の世界にうつって、最初に愕然としたのが理論が理論で無いことです。どんなに読んでも、コアが見えないのです。な~んとなく、分かった気になりますが、ではコアは?と問えばそれが見えないのです。書いている言葉がころころ変わるのです。もちろん数学では無いのですから意味の揺らぎはあります。だから、どこかで短い文章で最もコアであるものを宣言すべきだと思います。が、教育の世界ではそれがない。
また、実験結果だけを並べて、それをエビデンスと主張する方もおられる。観察の理論負荷性をご存じない。実験結果は理論と一対にならねば意味を持たないです。
このあたりが分かって貰えないから、教育の世界での議論が深まらない。