■ [大事なこと]学力
全国学力調査に関して「真の学力」、「正しい学力」、また、それに類する言葉を見かけると、「あ~、素人・・・」と思います。
きっと真の正しい学力がどこかにあると思っているのでしょうね。でも、過去から現在まで万人が合意する学力の定義は存在しません。いや、たった一つの学会だけであっても、その殆どの研究者が合意する学力の定義すらありません。
だから一人一人が別個のあやふやな意味で使っていて、あやふやすぎるのでそれらが矛盾しないのです。そして、そんな言葉からは具体的なものは何も生み出されないのに。
もし、正しく学力という言葉を使うならば、「◎◎を使って測定されるものを学力とする」という風に操作的に定義をしなければなりません。このことを知っているならば、全国学力調査と日常の授業を結びつけるということが、いかに無理があるかは自明です。
■ [大事なこと]一人口
ここから書くことはおしかりを受けるかもしれません。しかし、少子高齢化社会の日本には明るい展望は無く、子どもたちは一生涯私の経験したような時代を経験できないと、各種データから判断しています。その子どもたちが不幸にならないためにと思って書いていることですので、ご寛恕ください。
さて、ある人が「働くか、働かないかは、個人の判断だ」と言って働かず、「基本的人権は憲法で保障されている。それ故、私の生活を保障するのは国の責任だ」という人がいたらどう思いますか?
今の日本は非正規雇用がドンドン増えています。非正規雇用の年収は170万円で、女性に限ったならば140万円といわれます。国の施策の不備を指摘することは可能でしょう。しかし、マクロに見たら、GDPの殆どが国内市場に依存し、人口が減少し、高齢者の割合が増える日本にどんな選択肢が残っているでしょうか?
国が何をするか、しないかに関わらず、我々は幸せになろうとしなければなりません。与えられた最悪の条件下でも子どもが幸せに生きる道をイメージしなければなりません。
結婚は有効な貧困対策だと思っています。年収170万円であっても結婚すれば世帯の収入は340万円になります。しかし、共稼ぎで大変なのは子育てです。それを保育園に任せれば出費がかさみます。だから、ジジババに頼る必要があるでしょう。しかし、ジジババ世代も優雅な生活とは言えません。頼られっぱなしは大変です。出来れば、夫と妻の両方のジジババに協力してもらいましょう。そして、ジジババの年金と合わせて大家族になれば経済的に余裕が生まれるかもしれません。昔から一人口は食べられないが二人口は食べられると申します。なんのことはありません、高度成長期に生まれた現在の家族は高度成長期の終焉とともに終わるべきです。そして、高度成長期以前の地方の家族に回帰すべきなのでは無いでしょうか。
これからの日本は精一杯に頑張らなければ生きられない時代です。男も女も、「家族」という職場に就職しなければ生きられない時代だと思います。
さて、ここまで説明して、以下を書きます。
ある人が「結婚するか、結婚しないかは、個人の判断だ」と言って結婚せず、「基本的人権は憲法で保障されている。それ故、私の生活を保障するのは国の責任だ」という人がいたらどう思いますか?
夫の妻の両方の両親とともに生きるためには、伴侶は中学校区で見つけなければなりません。つまり、義務教育は婚活の場でもあるのです。
極論だと否定される方にお伺いします。
少子高齢化社会の日本に、上記以上にリアリティのある貧困対策の道はあるのだろうか?と思います。
我々の時代で成り立ったものを子どもに押しつければ、子どもが不幸になります。
追伸 だから、収入が無いから結婚できない、という考え方が時代遅れで、本当は収入が無いから結婚する、が正しいと思います。
■ [大事なこと]生徒指導2
教師になるような人の多くは(全部とは言いませんよ)今の学校教育のシステムにフィットしている。だから、生徒指導を受けたことがあまりありません。
だから、従来型の一斉指導だったら出来たとしても、生徒指導は不得意ではないでしょうか?だって前者だったら、数十人の人から20年間、毎日、受けていた。理論的な裏付けはなくても見聞きしている。ところが、後者の場合は理論的な裏付けはもちろん、見聞きもしていない。だから、自分の数少ない経験でやらざるを得ない。こう考えてみると、指導の行き過ぎで子供を自殺に追い込む教師がいても仕方がない。無免許の人が路上でスーパーカーを全速力で走っているのだから。
追伸 人ごとではなく、私も無免許運転をしました。ただ、私を救ってくれた多くの先輩教師がいたからなんとか生きています。ただ、自分がひき殺した子どものことを思うと今でも涙が出ます。が、自己憐憫の涙より、改善の行動。
■ [大事なこと]ギフテッド
最近、ある先生から、本当に才能のある子どもに『学び合い』は何が出来ますか?と聞かれました。
私は、今の授業は成績中もしくは中の下に合わせており、だから才能のある子どもを見捨てている。その子のために発展的な教材を用意すると言う人がいるけど、一度でも本当にやったなら、そんなことは言わないはず。だって、数人のために労力が数倍になり、かつ、それでもふきこぼしてしまう。だから、仮に『学び合い』が何も出来なくても、現状と同じ。
でも、『学び合い』は分からない子どもを教えるという超難解な発展的な課題を与えている。そして、その子は感謝され、仲間を得る。だから、かなり「まし」と言いました。
その方は、本当に才能のある子を伸ばせないのですか?と聞きました。
私は、そもそも教師になるような人は成績中の上もしくは上の下であることを確認しました。だから、そもそも成績上の上の人を教える能力は無い。そして、天才的な才能がある子どもの場合、小学校1年生でも教師が負ける。だから、教師がその子の得意な部分に何か出来るなんて無理。学校教育では人格の完成をすればいい。その子の才能を伸ばすのは、教師が何もしなくてもその子は伸ばす。それが天才。教師に出来る子とは「じゃましない」つまり、お節介になんらかのプラスアルファの課題を出さない。
教師は才能ではそのような子に劣るでしょう。しかし、クラス集団をまとめ方向付けることに関しては、教師が勝ることが出来る。そこで勝負すればいい。
と申しました。
私も教師は子どもより全面的に勝っていると思っていましたし、思いたいと願いました。でも、今は「しょせん私なんだもん」と思うことの方が楽だし、色々なことが出来ることを知りました。
■ [大事なこと]漫画
私は小学校低学年から漫画を読まなくなりました。理由はあまりにも図式が単純だから。少年漫画は、「敵が出て、打ち負かす、さらに強い敵が出て、打ち負かす・・・・。」という図式で、最後は指一本で地球を壊すことが出来る敵が出てきて収拾がつかなくなります。少女漫画は「素敵な男性が現れ、憎たらしい同性がいて。すったもんだで、最後は結ばれる」という図式。フランスの笑い話に、『作家のサガンが友人に小説のアイディアが沸かないと悩んだそうです。その友人は「女性がいて。そこに男性が現れる。その男性は・・・」と言いかけたとたんにサガンは「もういいは小説の筋が出来た」と言った。』というものがあります。そんなものですね。
なんでこんなに単純か?私なりの分析ですが、主人公が一人もしくは数人に限られている。だから、話しを同じ次元で複雑化できないためだと思います。もしかしたら、いや、おそらく、主人公が多数で(こうなったら主人公という言葉自体が矛盾ですが)あれば、ごく日常がドラマになるのになと思います。
以前から『学び合い』を漫画にしたいと思っています。実践者だったらお分かりだと思いますが、『学び合い』クラスはドラマが満載です。でも、同時に同意してもらえると思うのですが、その状況があまりにも日常なので、時間的にも空間的にも長く・広い知識が無いとそのすごさが表しきれない。
ま、そうは言いつつも、今、文章で書いているところです。乞うご期待。(カリキュラム・マネジメントに関する本です。え?と思うでしょ。詳細はひ、み、つ。イントロは越後『学び合い』の会で話します)
追伸 大学生になり、漫画ファンの同級生から、そんな単純な漫画ばかりではないことを教えてもらってから読むようになりました。しかし、世に溢れる本は私が小学校の頃とまあ同じです。ただ、昔は小学生をメインターゲットとしていましたが、今は、オッサンをターゲットとしている点はちょっと違いますが。
■ [大事なこと]生徒指導
私は小学校1年生に対しても、中学校3年生に対しても、大学生に対しても、院生に対しても、教え子に対する態度はほぼ同じです。
初対面の場合は、初対面の大人のように接し、親しい子の場合は親しい大人のように接します。私には絶対的な権力は無く、基本的には対等な関係だと思います。そして、私が教師として何かを強いる場合は、正当なプロセスによって決まり明文化されているものを根拠として求めます。そして、拒否する権利を認めます。
このスタンスが生まれたのは初任校の影響です。暴走族だらけで、退学なんて屁とも思わない子どもたち相手に教師として対峙するには、居丈高にならず(喧嘩をすれば私は負けます)、卑屈にならず(馬鹿にされます)、大人として接することしかないことを多くの失敗から学びました。
しかし、義務教育の学校、高校でも中以上の学校では、私のような経験をしません。そして、経験するときは最悪の状態になってからです。大学の教師として、この大事なことを二十代で学べたことを僥倖と思っています。同時に、その経験の無い教師の子どもへの言動を見ると「危ういな」と思います。
多くの教師は教科指導の本は読みますが、生徒指導の本は読みません。それは自己流で出来ると思っているように思います。書店にあるのは、最悪な状況に対応した生徒指導本です。しかし、本当は日常の生徒指導をちゃんとやることが教科指導のベースになります。
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■ [大事なこと]原因
学校でスピーチタイムというものがあり、順番に全員の前で発表させます。しかし、ほぼ100%沈滞しています。おざなりの教師からの質問だけになっています。
学校で作文があります。ところが、書けないし、書いたとしても箇条書き的な文章になります。
多くの教師は指導します。しゃべり方の、書き方の指導です。それがないから喋れず書けないと思っているから。でも、違います。喋る必然性が無いから、書く必然性が無いから、それが原因です。
会話にも文章にも、相手があり、目的があります。そして、相手の目的に合致していなければなりません。それが欠如していたり、ぼやけていれば、喋らないし、書きません。当然のことです。
教師のすべきことは喋る技術、書く技術の指導ではなく、喋りたくなる、書きたくなるミッションを与えることです。
子どもは操る対象ではありません。芸を教え込む猿でもありません。一人の人格として敬意を持って接すれば、当然のことです。