■ [大事なこと]セオリー
『学び合い』は多様性を前提としています。
多くの教師が、「この方法はいい」と主張します。私は「誰にとって?」と言いたくなる。おそらく「子どもにとって」と言うでしょう。でも、子どもという子どもは一人もいません。例えば、「最初の5分は一人で考えさせて、それから交流する」ということを強いている地域はあります。「何故、最初の5分は一人で考えさせるのですか?」と聞くと、「そうしないと、自分で考えない」とおっしゃります。私は「子どもは多様です。1分で考えられる子もいるし、3分の子もいる。5分の子もいますが、10分の子もいます。いや、そもそも、教師の期待する答えを既に知っている子がいます。この子は何も考えないでしょう。では、何分に設定すべきですか?」と聞くと、黙ってしまいます。一斉指導の考え方では出口のない問題です。
『学び合い』では5分という時間で強いるのは効果がないし、無駄だと思います。1分で考えられる子どもは4分が無駄です。10分かかる子は自分の考えを持たないでしょう。そして、多くの場合、何も考えない。じゃあどうするか?
自分で考えることを意味を語るのです。
一斉指導でこの発想が出来ないのは、そんなことを語っても考えない、と考えているからです。じゃあ、一斉指導と『学び合い』の発想の違いはどこにあるか?それは、想定する子どもです。一斉指導は「やらない子」を想定します。一方、『学び合い』は「やる子」を想定します。その子が「やらない子」を動かすのです。
方法でコントロールしようとすれば、その方法が合わない子どもがいます。しかし、人によってオーダーメイドの方法を模索すればフィットする可能性は飛躍的に高まります。その結果、『学び合い』の方法は驚異的にシンプルになります。大事なのは集団をどのように動かすかとなります。これは学年、学校段階、教科に依存しません。
しかし、その先もあります。最終的には私が本で書いたテクニックすらも捨てるべきなのです。私の本よりも丁寧なテクニックが多くの方々が開発しています。それで『学び合い』にソフトランディング出来るならばいいことだと思います。でも、そのテクニックは速やかに捨て去るべきなのです。何故なら、我々は子どもを大人にしている。大人社会にはテクニックを駆使する教師はいません。
じゃあ、どうするか?それは「他人と折り合いを付けて自らの課題を解決することは得だ」ということが理解できる人を増やして、その人に繋げることです。西川ゼミは全てのテクニックを捨てて、それだけでやっています。それが西川ゼミでの『学び合い』実践です。