■ [大事なこと]コモディティ化
私は昔から教育のICTはコモディティ化したハード・ソフトですべきだと思います。例えば、一太郎、ワード、エクセル程度を使えるようにすればいい。プログラミングも、それのマクロをつくる方がいいと思います。
利点は多々あります。
いいものはコモディティ化します。そうならないものは、その程度です。
コモディティ化したものなら、教師が教えなくても保護者が子どもに教えます。
コモディティ化したならば、社会に出てから役たちます。もちろん子どもたちが生活するころには違いますが、基本的にアッパーコンパティビリティは保証されると思います。
で、これだけの利点があるのにコモディティ化したハード・ソフトが使われないのでしょうか?理由は、コモディティ化したものでは業績にならないからです。
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■ [大事なこと]Society5.0
小学生の頃、21世紀はこうなる、という絵が本に書いてありました。変形したビルが乱立し、その中で空中を行き交う車があります。そして、宇宙服の洋服を着た人間がいます。
21世紀になり19年がたっていますが、そんな社会になっていない。
相変わらずビルは直方体が基本だし、服はそんなに替わっていません。当たり前です。物理法則は変わらないし、ホモサピエンスの生物学的な特性も変わりません。じゃあ変わっていないのかと言えば、もの凄く変わった。それは人と人とのつながり方、情報の量と質です。
政府が出しているSociety5.0を見ていると小学生の時に見た絵を思い出します。結局、新しい時代のコードが分からないと、見てくれの良い、キラキラしたもので新しい世の中をイメージするしかありません。多くのSociety5.0が見事にSociety3.0のコードであることに苦笑してしまうのです。
子どもの学び方、教員の養成・再教育が見事にSociety3.0です。つまり、工場で製品を生産するように、規格化し、同期させているのです。
■ [大事なこと]基礎的・基本的学力
認知心理学に族類似という言葉があります。自然言語において明確な内包的定義も外延的定義も不可能なのです。例えば、「椅子」を定義してください。必ずその定義に合わない、椅子が存在します。自然言語では、それらを特徴付ける属性の一群があり、それを多く含むとき、それである蓋然性が高まるのです。そして、その全ての属性を含むものはないのです。
基礎的・基本的学力もそのようなものです。確かに、多くの子どもにとって必要とされる能力はあるかもしれません。しかし、それは必ずしも多くはありません。中学、高校で学ぶものの場合、それは多くはありません(これに関して実証的データに基づく学術研究をしました)。そんな程度です。
しかし、日本人のほぼ100%は基礎的・基本的学力があると思っています。しかし、そこには何らの実証データに基づく学術の裏付けはありません。一人一人がバラバラのイメージを持っています。そして、それを「それも大事だね」と言い合っているうちに際限が無く膨れ上がるのです。