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アリとキリギリス

 今から語ることは非難を受けることかもしれません。しかし、教師とならんとする人に対しての教師であるとき、語ることは義務だと思っています。かなり長くなります。

 イソップのアリとキリギリスの話の最後ではキリギリスはアリに泣きつきます。アリは以下のように語ります。

「だから、食べ物がたくさんある夏の間に食べ物を集めておきなさいと言ったでしょう。 家には家族分の食べ物しかないから、悪いけど、キリギリスさんにはあげる事が出来ません」

 おそらく、キリギリスは飢えて死ぬでしょう。では、アリを薄情だと思い、非難しますか?

 しないと思います。なぜなら、アリは伝えるべきことは伝えたのです。そして、家族を守ることを優先したからです。

 ここから『学び合い』のセオリーに入り、非難される領域です。

 『学び合い』では「一人一人の子供に寄り添うな」と申します。これって、一般的な教育の言明に反しますよね。でも、そうです。なぜなら、30人の子どもに寄り添えるわけない。一人一人の業は深いのです。一人の教師ができるわけない。それがわからない若い私は寄り添う努力をした、でもできなかった。結局、捨て猫を拾って、元の場所に戻すことしかできなかった。そして自己憐憫に浸って合理化した。

私は必死になってどうすればいいかを研究した。結果、『学び合い』に至りました。目の前の子どもを救い続けることは無理。それは1分間空中浮揚ができないのと同じぐらい無理なのです。どうすればいいのか?一人一人に寄り添う集団を作ることしかないのです。厳しいですが、これがわかったら、仮につらい子どもがいても、自分には無理だということがわかります。その子どもから1分間空中浮揚してほしいと願われたら、それは無理といえるぐらいの気持ちで。しかし、その子に対してではなく、その子を含む子ども集団に関して申し訳ないと思います。集団を作れなかったから。ゼミ生にも数人はいますが、その学生の特性を考えると難しいと理解しています。その他の学生がどのように動いているかを知っているから。その子の問題にとらわれたら、集団が崩れます。

 さらに非難されることを書きます。

 能登の方のご苦労のニュースを知りました。それで、書いています。

 私のゼミのゼミ生から、今年の最初の能登地震の被災されている方々をどう思うかを聞かれました。その学生の親族がかなり厳しい状態であることはわかった上で、自分の共感能力を抑えて以下のように語りました。

 被災された方々のご苦労をかわいそうと思う。しかし、怒りを覚える。何故、家族を守ることをしなかったのだろう。

 ゼミ生は「お年寄りには対策はできない」というようなことをいいました。

 私は

 かなり前に能登に地震があった。被災地の画像が流れていると、壊滅的な家と被害がない家がある。失礼ながら、倒壊した家は、「そうだろうな」という家だった。その時点で、何故、耐震構造にしなかった?おそらく、今回地震があったからしばらくないだろうな、と思ったのだろう。しかし、家族を守るという意識より、お金をかけなくていいという意識が優先されたのだろう。その選択をしたなら、その結果を甘んじて甘受すべきだ。と。

 かなり、きつくて、冷たいですね。

 願わくばわかってほしい。

 災害において、自助、共助、公助があります。

 自助ができない人はいます。しかたがない。

 公助の場合、キリギリスを救えば家族を救えない。

 教師のできることは共助です。能登地方でも地震に倒れない家にした家があります。なぜ限定的だったのでしょうか?

 私が学校教育の最大の目的は中学校区単位の地域コミュニティの再生だと思うゆえんです。

 私は教師として、このきついことを言うべき義務があると思っています。