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2004-09-29

[]私から見た大学院の2年間(改訂版) 13:29 私から見た大学院の2年間(改訂版) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 私から見た大学院の2年間(改訂版) - 西川純のメモ 私から見た大学院の2年間(改訂版) - 西川純のメモ のブックマークコメント

 院生さんが大学院でどのように2年間を過ごすのかに関しては、本ホームページの大学院の紹介に載せています。ここでは、私にとっての2年間を紹介します。

 私から見ると大学院の2年間は8期に分かれます。

 第1期は修士1年の4月~6月で、目標を設定する段階です。第2期は7月から10月で、目標を吟味する段階です。第3期は10月~12月で、最初の実践研究を通して我々の考えを理屈ではなく、体で実感する段階です。第4期は1月~3月で、最初の実践で得たものを吟味し、自身の目標を再設定する段階です。第5期は2年目の4月から6月までで、二回目の実践研究を通して、我々の考え方を自信を持って実践する段階です。第6期は 2年目の7月~9月で、二回目の実践で得たものを吟味し、自分のなしたものをまとめる段階です。第7期は10月~1月で、自分のなしたものを、多くの人に還元する段階です。第8期は 2月~3月で、2年間で学び取ったものを評価し、取捨選択する段階です。

 第1期では、院生さんとクラスで起こる様々なことを見る視点に関して議論します。院生さんは基本的文献や過去の修士論文を集中的に読み、それを踏まえて、また、私と議論します。このような議論を通して、何をやりたいのか、何が出来るのか、どの様なものが見えると予想されるか、それはどのような意味を持つかを積み上げます。私にとっては、「生の現象を徹底的に見ること」、「子どもの能力を最大限信じること」、「教材や個人の認知ばかりではなく、集団の相互作用から現象を解釈する」という、最近の我々の研究室の考え方を、院生の方々に「洗脳」する段階です。もっとも、私は洗脳するぐらいの意気込みで議論しますが、現場経験豊富な院生さんが単純に洗脳されるわけはありません。しかし、現場では気づきにくい、新たな視点として受け入れてもらいたいと思っています。実は、この第1期が、私の最も重要な仕事である目標の設定を行う時期です。それ故、この期間は、徹底的に院生さんと議論します。逆に言うと、第2期以降は、院生さんに任せる部分が大部分になります。つまり、「遊んでいても、何をしてもいいよ。結果さえ出せばね」という契約を結ぶ段階がこの第1期です。これさえ乗り越えれば、あとは怒濤の前進です。

 夏休み明けの第2期になると初年度の実践研究を計画しなければなりません。分かったつもりの我が研究室の考えを本当に分かっていたかは、具体的な研究計画を立てる段階で吟味が行われます。例えば、「子どもを信じる」ということを言葉で分かっていたとしても、実際に授業計画を立てる際、それが信じられない部分が表出します。そこを議論しながら、「子どもを信じる」ということの本当の意味を分かっていただきます。

 第3期は、院生さんがフィールド(即ちクラス)に入り込み、データを収集しつつ分析する段階です。私は、定期的にフィールドから戻る院生さんと、得られたデータについて議論します。

 この段階では、院生さんは我々が主張していることが本当であり、その力は実に強大であることを実感します。ただし、この段階のごく初期段階で、落ち込む院生さんもいます。理由は子どもたちが、本当の力を出すまでには2週間~4週間かかります。なかなか動いてくれない子どもにイライラし、本当に我々の主張することが正しいのか疑心暗鬼になる場合があります。その場合は、「大丈夫だよ!」と安心させることが私の仕事です。大抵は4週間も経てば、子どもが動き、また、どの点に着目すればいいのかも分かるので安心し始めます。もちろん、最初からすっと問題なく実践できる方が半数です。

 実践を始めて1ヶ月もたつと、面白くてしょうがなくなります。柔道を習いたての時に、やたら技をかけたくなるのと同じです。今までとは違った視点で子ども・授業を見れますし、子どもたちが出してくれる成果は、従来では考えられないほど高度で効率よいものです。そして、その影響は学力ばかりではなく、人間関係及ぶことに気づきます。結果として、学力と人間関係を二項対立的に分けることの愚かさに気づきます。その様子は、電子メールや定期的に戻ってきたときの個人面談でうかがいます。この時は、求められない限り、伺うことを基本とします。

 第4期は、実践研究から大学に戻り、実践研究をまとめ、それをもとにして次年度の実践研究を計画する段階です。実践研究で得たデータは膨大です。どこから手を透けていいか分からない状態に陥っています。でも、その中にダイヤモンドがあるとは直感で感じている段階です。

 この段階に私がやることは、院生さんの話を聞いて、議論することです。院生さんの話の最初の1、2分を聞くだけで私の評価はほぼ決まってしまいます。私の評価の視点は三つです。第一は、ご「本人」が自分自身の研究に感動しているか、否かです。我々の研究室の研究は、現場の先生方に共感を受けるものでなければなりません。現場の先生方に共感を受けるか、受けないかを判断するならば、私のようなものより、現場の先生である院生の方の判断の方が正しいはずです。語っている現職院生の方の顔を見て、声を聞くだけで、「こりゃ良い研究だ」ということは一目瞭然です。そうなると、私は「もう十分ですよ」と話の途中で切ります。そうすると、本人が感動している場合は、「いや、これだけは聞いてください」と語りたがるものです。その場合は、靜に拝聴することとしています。

 第二の視点は、「難しい言葉を使っていないか?」という視点です。新たな概念、知見に触れると、やたら、それを使いたがるものです。柔道の習いたてには、やたら人を投げたがるのと一緒です。ところが、言葉に酔って、言葉が踊っている場合もあります。第一、私自身がチンプンカンプンです。その場合は、「簡単で短い言葉で言って」と頼みます。これが出来る場合は、その言葉を理解して使っていることが分かります。その場合は、分かりやすい表現で表すことを求めます。なにしろ、他の人に、それもより多くの人に分かってもらえなければ意味がないと、我々の研究室では考えていますから。もし、「簡単で短い言葉」で表せず、別な難しげな言葉を使い、かつ、長々と説明している場合は、その言葉を本当には理解していないことを説明します。

 第三の視点は、一つのストーリーになっているかです。院生さんが自分の報告に感激しまくっているとき、「これも面白い」、「あれも面白い」、「それも面白い」と四方八方に報告の方向が散乱することがあります。聞いていると、本当に「面白い」発見ばかりです。しかし、修士論文は一つのストーリーにまとめなければなりません。それら多くの「面白い」ことに一本の筋が通っていなければなりません。その場合、気が付いた「面白い」こと全てが、その筋に乗るわけではありません。そうなると、涙をのんで、いくつかの「面白い」ことを諦めなければなりません。私の第三の視点は、「散乱していないか?」という視点です。しかし、涙をのんで諦めたことは、無駄になるわけではありません。ご自身の修了後のテーマになったり、後輩の研究テーマに繋がったります。

 ただし、半数弱の方は、当初狙っていた現象が出なかったため落ち込んだり、不安に陥ることがあります。「だめだ~」と落ち込んでいる院生さんと議論しながら、得られたデータは確かに当初の予想とは違うが、でも、もっと面白いデータであることを見いだします。といいましても、私が教えると言うより、院生さんが気づいていることを勇気を持って口に出せるように、勇気づけることが中心です。大抵の場合、当初予想したものとは別なものの方が、当初のものより数段面白いものです。だって、当初予想したものは、既存のデータから演繹されることです。それを越えたところに、大きな飛躍があります。なお、院生さんがどんなに落ち込んでも、私は不安を感じません。なぜなら、現場にいって、数ヶ月にわたり多くの子ども・教師のデータを記録して、面白事が出ないなんて、明日、日本列島が沈没するよりあり得ないことです。

 第5期は、2年目の現場実践に入る時期です。この時期には、私の仕事は殆どありません。実践にも、そして出るデータの分析にも自信を持っています。だから、私としては、お話しを承る段階です。

 第6期は、実践から戻って2年目の実践をまとめる段階です。院生さんと議論すると、私なりに「それをやっても無駄だよな~」とか、「あ~あ、典型的などつぼのパターンだよな」とか感じることは少なくありません。でも、それは出来るだけ言わないようにしています。何故なら、私の既存の考えで院生さんの考えを規定すると、私が知っているレベル以上のものは絶対に出ないからです。だから、夏の学会の発表の準備では、発表の仕方(例えばグラフの使い方など)に関してコメントをしますが、何を発表するかに関しては院生さんに任せるようにしています。私としては、この段階では、とにかく院生さんに玉石混合であっても、とにかくいっぱい面白いことに気づいて欲しいと願っています。この段階で、石のことをごちゃごちゃ言えば、玉を見出すことを阻害してしまいます。私が安心していられるのは、 それ以前の段階で目標と方法に関して徹底的に議論しているので、素晴らしい結果が出ることに安心しきっています(いままで裏切られたことは、タダの一回もありません)。院生さんが、新たな事実を言わなくなったり、新たな事実を言うのですがそれがそれまでの発見したことに比べると枝葉末節なことを言い出し始めたら拡大の第6期は終わり、深化の第7期に入ります。

 第7期は、論文をまとめる段階です。この段階の初期に投稿論文をまとめさせ、そのことによって修士論文の骨子を完成させます。 やっていることは第4期と同じです。4期との違いは、落ち込む院生さんはほとんど無いという点です。なぜなら、方向性がちゃんと定まっており、それに関して自信を持っているからです。さらに、前年度の経験から、多少の問題があっても、何とか出来るという楽観を持てるからです。また、論文には色々とお約束があります。それを伝えるのが私の仕事です。

 第8期は、修士論文、投稿論文が完成し、そろそろ来年度戻る学校が決まり始め、意識が「戻ってから」に移ります。その段階になると、我々の考え方を取捨選択できるようになります。剣道に守破離という言葉あります。つまり、守-形を守る段階(初心)、破-形を破る段階(達人)、離-形を離れる段階(名人)の段階で進むという教えです。おおよそ、第6期までは「守」の段階で、第7期は「破」の段階です。そして、この第8期が「離」の段階です。私にとっては、院生さんが遠い高見に登っていくのを見送るようで寂しい気がします。でも、「破」と「離」の段階に達した院生さんの知恵を吸収することによって、我々の研究室は常に次の段階に進むことが出来ます。

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 本日、Yzさんと話しながら、我々の考え方で「一番」難しいのは、教師が関わることは「悪い」ことだ、ということを再確認しました。

 子どもの有能性に気づき、学び合いの素晴らしさを気づけたとしても、それでも教師は子どもと関わろうとします。例えば、子ども達の学び合いが活性化すれば、それまで教師の仕事の大部分を占めていたことをしなくても良くなります。例えば、クラス全体に対する指示、子ども達同志のいざござの調整、授業が分からない子どもに対する対応・・、それらは子ども達同志の間で解決されるようになります。今度の本で紹介していますが、Mさんレベルになると、授業中に十数回つぶやくだけで授業が成立してしまいます。そうなると、自由な時間が生じます、そうすると目立った子ども、例えば特別勉強の分からない子、教師に反抗する子、多動症、アスペルガー・・・に個別対応してしまいます。しかし、それは誤りです。たかが教師に、そのような子どもを何とかする力はありません。出来るとしたら子ども達しかありません。そして、教師がその目立った子に「まとわりついている」間は、子ども達がその子どもと関係を結ぶことが出来ません。つまり「悪い」ことをしているんです。

 まずは、自分の力の限界を知り、一方、子ども達の力のすごさを分からなければならないでしょう。また、授業中に数十回つぶやくだけの教師は、何もしていないのではなく、色々なことをちゃんとやっていることに気づかなければなりません。つまり、本当は特定の子どもにまとわりつく暇などないことに気づかなければなりません。でも、このことって一番分からないことなんだと思います。学び合いの有効性に気づいている人、実践している人でも、最後まで残る「しっぽ」の様なものだと思います。

 教師の仕事は、一人一人の子どもと繋がることではなく、子ども集団を形成し、その子ども集団と繋がることなんです!一人一人の子どもに繋がる仕事は、教師の役目ではなく、子どもの役目なんです!

追伸 「でもね、学校現場においては、そうしなければならない場合があるんだよ」と訳知り顔で言う人がいるでしょう。そりゃ、何事にも例外があることは百も承知、二百も合点です。でも、そういった人が「そうしなければならない場合」とあげる事例の9割以上は、子ども達に任せた方が良いと確信を持っています。おそらく、「そうしなければならない場合」は限りなく少ないと思います。もちろん、子ども達がやっても駄目な場合はあると思います。でも、その場合は、教師でやっても駄目な場合だと思います。逆に教師がやっても駄目であっても、子ども達がやれば解決できる「そうしなければならない場合」は山ほどあります。 中には「私はそういう場合を解決した!」と胸をはる人がいるかも知れません。でも、私は「たかが教師が解決できるレベルの問題だったら、子ども達は、もっと早期に、もっと質の高い解決をなしたでしょうよ」と言いたい。(ちょっと、攻撃的すぎるかな?)