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2009-01-06

[]学校観 17:07 学校観 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学校観 - 西川純のメモ 学校観 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 橋本大阪府知事が学力調査結果の公開のテレビを賑わした頃のことです。あるところで、酒席で「西川先生は橋本知事の学力調査結果の公開を求めることに関して、どう思われますか?」と語気強く聞かれました。まあ、「反対以外は認めないぞ」という意気込みを感じられましたの、まあ、あやふやにでも「反対だよな~」と感じられるような返答をしました。でも、困ったな・・・・と思いました。というのは、その質問された方は認めないと思いますが、実は橋本知事と全く同じ土俵に乗っています。

 「テスト結果を廊下に張り出し公開し、競争させたほうがいい」という先生も、「テスト結果を廊下に張り出すと、競争になるから駄目だ」という先生も、実はテスト結果の意味するものをほぼ同じに捉えているんです。競争の是非は違いますが、「公開は競争になる」と思いこんでいるからです。そう思いこんでいる限りは、公開しても、公開しなくても、良くない方向に進むでしょうね。

 同志のブログ(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/makine45/20081231)にあったので、「競争しても学力行き止まり」を早速読んでみました。イギリス教育の変化を読んでいて、陰々滅々な気分になりました。まあ、その後の展開が分かりすぎるほど分かるので、すいすい読めました。途中から、細かいところは流し読みにして、この本では「学力とは何か?」、もっと直裁に言えば「学校に行く意味は何か?」をどう捉えているのかな~っと思いながら読みました。同志なれば、この本ではぼやーっと遠くに見えるものが、『学び合い』の学校観で読み直しているでしょうね。そして勇気を得ているのだと思います。

 しかし、残念ながら、この本を読む読者の大多数は「やっぱ、競争しない方が良いんだよ~。そういっているんだね」と解釈するのだと思います。でも、その方の考えている学力とか、学校に行く意味は、この本で否定しているイギリスの教育行政担当者の考え方と基本的には同じなんです。そういう考え方だと、「競争しても学力行き止まり」と同様に「競争しなくても学力行き止まり」なんですけどね。

[]出来る子 15:36 出来る子 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 出来る子 - 西川純のメモ 出来る子 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』を実践しているクラスを見る際、私が着目するのは、そのクラスの出来る子たちです。

 出来ない子は多様です。実に様々です。ところが出来る子(まあ、正確に出来て、素直な子。つまり良い子)は教師の求めている姿に収斂しているからです。少なくとも、教師の目の前では、「教師の求めている姿、と、その子が思っている姿」をします。

 出来ない子が学び合わない理由は千差万別で、対応策も千差万別です。そんなこと教師が出来るわけありません。でも、出来る子が学び合わない理由は、たった一つです。教師が学び合うことを求めていないからです。そして、その原因もたった一つです。それは『学び合い』の考えを考えとして捉えず、テクニックとして捉えてしまっているからです。

 子ども、特に出来る子は、自分の心の鏡です。彼らは、教師の言っている言葉に反応しているのではありません。教師の四六時中の言動をトータルに分析し、判断します。私はそのクラスの教師の姿をトータルに分析できません。しかし、トータルに分析した出来る子の姿をちょいと見れば、直ぐに分かります。

[]折衷案 15:36 折衷案 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 折衷案 - 西川純のメモ 折衷案 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 良いものと良いものを組み合わせるというのは、安全に一定以上のものを生み出せる方法です。ただし、それは基本的前提が同じ場合のみのことです。例えば、ウマが美味しい草とライオンが美味しい生肉をブレンドしたものは、ウマもライオンも美味しいとは思わないでしょう。

 どうしてもまとめをしたいという先生は少なくありません。まとめが名人級にうまい先生がいたとします。その先生が前半は『学び合い』で、最後の10分ぐらいまとめをしたとします。結果は良いものにはならないでしょう。何故でしょう?

 『学び合い』では「みんな」が分かることを課題とします。もし、それが成立しなかったら、「何で出来なかったんだろう?」と問いかけ、そして、それがいかに大事かを語ります。それによって子どもたち一人一人が、自分たちの頭で解決することを求めます。しかし、最後の10分ぐらいをまとめをしたとしたら、子どもはみんなが分からなかった原因は自分たちが足りなかったから、と思うでしょうか?否です。きっと、「先生がちゃんとやらないからだ」と思うのではないでしょうか?特に出来る子がそう思います。だって、まとめが必要だと思う心に手を当ててください。なんで、そんなことをしたんですか?その答えを子どもたちが察します。

 私は、最初に短く課題を語り、「さあどうぞ」と語り、まとめをせずに終わる、というラディカルな授業を提案しつつけています。ラディカルなように見えるかも知れませんが、それが『学び合い』の学校観・子ども観に素直に従った結果ですから。多くの常識的な先生の場合、そこまでいかずに中庸(?)な折衷案をされているでしょう。それを全面否定はしませんが、何故、それをしているのかを自己分析してください。子どもたち、特に出来る子は、あなたより正確にそれを分析していますよ。怖いでしょ?

追伸 世のしがらみで、典型的な一斉指導スタイルをせざるを得ない同志も少なくないでしょう。でも、ご安心あれ、そのあなたの心の葛藤も子どもは見抜いています。頼もしくもあり、怖くもあり。つまりポイントは何をやっているかではなく、何を信じているか、なんです。