■ [大事なこと]生き方

私にとって『学び合い』は学習論・指導論ではなく、生き方です。社会において集団と対峙するとき、何を成すべきか、成さざるべきかを判断するとき、『学び合い』の学校観(つまり何が大事か)と子ども観(集団とはどんなものか)に基づいて考えます。だから、私に対して、ありとあらゆる、様々なジャンルの質問に対しても、数秒のうちに回答します。
学生さんから部活の問題の相談を受けても、家庭教師の子どもの相談を受けても、発展途上国問題を質問されても、教育実習の相談を受けても、親兄弟の相談を受けても、就職の相談を受けても・・・・、私は確信を持って、『学び合い』の考え方に基づく分析をします。そして、そのような生き方をしていることによって、私はいかに「得」であるかをしつこいぐらいに語ります。
このようなことをしているので、ゼミ生は、私はゼミの運用として『学び合い』をしているのではなく、私の生き方の一環として、当然、ゼミにも適用していると感じていると思います。そして、何でそんなに無略茶な要求を私がしているかと言えば、私はその要求が学生さん当人にとって絶対に「得」であると確信しているからと感じていると思います。
でも、そうでなければ、子どもはどう思うでしょうか?特に、『学び合い』に今乗り切れない子ども、乗っていたが迷いがある子、その子はどう思うでしょうか?きっと「先生が楽したいから『学び合い』をやっているんだ」と思わないでしょうか?あることを人に求めるとき、その正しさを確信し、それを求める人にとって有利であることを確信したとき、迫力を持って語れます。
追伸 私が最も頻繁に歯がゆく思う事例は、生徒指導と教科指導を分離してしまう事例です。『学び合い』は学力向上の前に人間関係の改善が顕在化します。そこで満足してしまう人が少なくない。でも、それではやがて人間関係も低下します。『学び合い』はトータルなものなのです。点数を求めること、それが点数を求めることだけを目的としているわけではない。生き方、それで考えて欲しい、そして、それで自らが生きて欲しい、と願います。