■ [大事なこと]メダル数

私の意図していない部分に注目されてしまいました。その部分は言葉足らずだったので補足します。
オリンピックでメダルや入賞することは、本人や家族や地域の人には重要な意味があると思います。そして、同国人として私もそれを喜びます。私が奇異に思うのはそれを合算したメダル数を云々することです。
世界の大会に出場し、ビリにならなかったというだけで凄いことです(もちろんビリになっても凄いことです)。そして、それは本人の一生の思い出になり、家族や地域の人の思い出になるでしょう。ところがメダルを取らないと、それを評価しないということがしっくり来ません。果ては金ではないと全て駄目というのは論外です(幸い、今回のオリンピックではそのような風潮は少なかったと感じます)。さらに、メダル数を合算できるというのは、ある競技の銅メダルと、別な競技の銅メダルを同等に見ていると言うことです。私はそのようには思えないのです。
こんなことを書こうと思ったのは、息子が他国とメダル数を比較して、悔しいと私に言ったことがきっかけです。私は息子に以下のように語りました。
「発展途上の国の場合、国のみんなが「やるぞ!」と思わせるためにオリンピックのメダルやメダル数を大事にするのは当然だと思う。日本もかつてはそうだった。それしかなかったからね。でも、今の日本はそうではない。国が丸抱えに選手を育てている国に勝てるわけはない。負ければ収容所に送られるかも知れない国に勝てるわけ無い。そして、勝つ必要もない。全てのオリンピックの選手の一人一人には意味のある競技であり、結果であったと思うよ。だから、それを温かく見てあげよう。単純なメダル数ではなく、その意味が何かを考えなければならないよ。」
それを語り終わったとき、この図式は入試と全く同じだなと感じました。自分にとってどのような意味があるかという吟味がなされず、とりあえず偏差値の序列で進学先を考えている人が多いと思います。例えば、私は動物行動学を大学で学びたかった。そのために進学先を生物学を学べるところと考えていました。でも、動物行動学を学べる大学はどこで、どのような研究者がどのような研究をしているかを調べていませんでした。そこに考えが至れば、それを調べたはずです。ちゃんと調べれば、進学先は京都大学か農業工業大学しかないことは高校生の私でも分かったはずです。当時、むさぼり読んだ動物行動学の本の著者や訳者はその大学の先生方でした。実は私のゼミ生の中には、高校3年でそれをしたゼミ生がいます(http://goo.gl/cybwZ)
しかし、その先があります。子どもたちに自分の人生を考えて欲しい。そのためには、まず、自分の考える幸せとは何かと言うことを持たねばなりません。それも偉人伝を読むことによって得られる幸せや志ではなく、ごくごく普通の人が実現できる幸せをです。ちなみに、私の場合は「安定した収入を得られる続けられる職業について、一生つきあえる伴侶を得て、子どもをなす」ということです。あわてて補足しますが、結婚や出産が必須と言うことではありません。ようは一生つきあえる人たちを持ち、死後にも繋げられる何かを成すということです。私の場合は、それを伴侶と子どもにしただけのことです。いずれにせよ、子どもたちに幸せとは何かを考えて欲しいと願います。
そのレベルで進学先や就職先を選べば、かなり多様になるはずです。そして、一人一人の子どもが偏差値ではなく、個々人の幸せに基づいて行動するならば、学校教育における競争は協働に変化するはずです。
息子がメダル数を云々した後に、考えたことです。