■ [大事なこと]本の書き方
以前、本の書き方のノウハウを書きましたが、第2弾です。
ただし、これは教育書の書き方で、学術書の書き方です。
第一に、一気に書きます。というのは全体構想が頭の中で保持できるからです。私は半年や1年かけて教育書を書けと言われても書けません。そんな長期間では、一定の思いや表現を維持できないからです。だから1週間、もしくは1日で書きます。
第二に、そのような荒技が出来るのは、毎日、書いているからです。大事だと思うことをブログやFBで書きためています。それを利用しているのです。ただ、書きためた文章の中で、どれを使うかは一気に書き上げるときに選択します。全体の3分の1程度はそのような文章を使います。将来、本を書きたいと思う人は、毎日、思うところを書きましょう。それをブログやFBでアップしましょう。重要なのは毎日、ということです。
第三に、推敲です。これは読んでもらいます。未完成段階であっても読んでもらいます。本は人に読んでもらうものです、だから人に読んでもらうのは当然です。そもそも、出版社の人に基本的な方向性が正しいかを確認してもらわなければなりません。
そして、人に読んでもらっているのと同時に、自分でも推敲します。3日ぐらいたてば客観的に読むことが出来ます。
教育書はスピードが命だと思います。
時間をかけているんですが原稿が書けませんという方がいます。でも、それは正確ではありません。時間をかけているから書けないのです。少なくとも、荒くても最初から最後までの文章を書くのは短い時間でしか書けません。少なくとも私はそうです。
■ [大事なこと]ゼミ生の変容
毎年のことですが、ゼミ生が徐々に変容しているのを感じます。そしてゼミ所属2年目になると全然昨年と違っていることが分かります。
私も教員養成のための大学院を修了しました。教材開発を修士論文のテーマにする人はかなりいます。その人に、「その教材をお前は現場で使う?」と聞くと、大抵は首を振ります。教材開発は修士論文を書くためのものです。自分のトレーニングのためです。「自分」のためです。教材に限らず、大学院の研究は自分のためにするものです。
それが普通です。
しかし、私はゼミ生に、日本を変えろと求めます。当然、新ゼミ生は「このオヤジ、なに変なこと言うんだろう」と思います。でも、上級生がニコニコしながら聞いている様子を奇異に感じるでしょう。
それから私の術中に陥るように仕掛けをします。
全国からお客さんが来ます。お金と時間を投資してこられる方々です。だから志の高い方々です。私はゼミ生がその方々と関わるような機会を設けます。その方がたが『学び合い』に興味を持っていることを知ります。また、『学び合い』によってクラスや学校がどう変わったかを聞きます。私より数段説得力があります。そして、遠方の『学び合い』の会に参加します。それによって、一層、自分たちがやっていることが広範囲に影響を与えていることが分かります。
教職大学院の学生さんは9月から本格的に教育実習に入ります。それによって『学び合い』によって子どもが変容する姿を目の当たりにします。特に、苦しんでいる子が徐々に幸せになる姿を見るのです。それによって『学び合い』の実践者が語る意味を知ります。
私はゼミ生に色々なことを求めます。私がそれを求められるのは、そのことがゼミ生のためにもなり、日本の子どもと教師のためになると確信しているからです。
本日、新ゼミ生にそのうちの一つの仕事の進捗状況を聞きました。分かりませんでした。そこで「我々のゼミのやっていることは子どもの一生を変えることをやっているんだよ。その仕事が遅れると、苦しみが続く子どもがいると思う。もしかしたら自殺するようなことにもなる。ということは、あながち嘘でないことは分かり始めたよね?」とニコニコ言いました。うなずくのですが、真剣さがありません。ま、仕方がありません。そこで上級生に聞いてみると、その仕事の全体像を把握し、着々と進行していると言ってくれました。
この変容を生み出すには1年はかかります。
追伸 卒業・修了後に志を維持できるような仕組みを早く形成したいと願っており、そのためにありとあらゆることをしています。
■ [お誘い]授業公開
青森県八戸市立長者中学校で『学び合い』の授業公開をいたします。参観を希望する方は細山教諭(m-hosoyama★hec.hachinohe.ed.jp ★を@に変えてください)にご連絡ください。
6月15日(月)
3校時10:30~11:15
4校時11:25~12:10
5校時13:20~14:05
■ [大事なこと]現状認識
2014年9月16日に「@」以下を書きました。おそらく今年の下旬頃から第三段階に移行すると思います。アンテナの高い方の中に「パクリ」に移行した人がいます。
同志の方々は気づいていますか?5年ぐらい前でしたら、「学び合いの奴ら」とか「死んじまえ」のような2チャンネル的な発言をする方がかなりいました。中には実名でそのような発言をする研究者や教師がいました。その頻度がかなり減ったと思います。
理由はいくつかあります。
第二段階の人は本を読まず、見た目の異質さに反発しています。ところが最近は、見た目の異質さの背景にある、ごく普通の理屈があることが分かる書籍が充実しています。第二段階の人の中に、その書籍を読み、自分は実践しないにしても「まあ、これもありかな」と思われる方が増えたのだと思います。
もう一つは『学び合い』の実践者が増えたため、それを単純に否定すれば危険があると感じ始めたのだと思います。少数者が無視し得なくなったとき、その権利が認められる例は歴史上いくつもあります。最近だったら「性的マイノリティ」という言葉が認知されたことにも現れます。
私は民主国家の市民の権利意識が醸成されるに従って、今の教育は崩壊すると確信しています。民主国家の市民を育成するのは、啓蒙的専制君主の教師が君臨するクラスでは不可能です。民主国家の市民を育成するには、市民たる子どもが法に基づき合意形成をするクラスで育つ必要があります。その中で教師は法に基づき行動する公務員になるべきです。
民主国家において封建制度が残っているならば、革命が起こります。私は成績上位者が教師を見限る「良い子の反乱」によってそれが思っていました。ところが、文科省が大学入試改革という禁じ手で現在の教育を改革することを予想していませんでした。それほど経済産業界が危機的な状況にあることを理解していませんでした。
先だっての京都の会で、イノベーターの発言を聞いて、アーリーマジョリティがため息を出す場面を目撃しました。今までだったら、アーリーマジョリティの人は無視するか感情的に反発するかのいずれかでした。しかし、アーリーマジョリティの人も変化は避けられないと理解しつつあるのだと思います。だから、取引をし始めます。
もうこうなると「な~んちゃって『学び合い』」は避けようがなくなります。その中で私が出来ることは、「『学び合い』/「なーんちゃって『学び合い』」」比率を高めることです。そして両者の合同『学び合い』を推進することです。
さて、そのために何が出来るか、と考えています。とりあえず、この1週間で2冊の原稿を書き終えました。
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何度か書きましたが、死に直面した患者がどのような行動をするかという研究したロスの「悲嘆の五段階説」というのは面白いです。
第一段階は、その存在を否認し、たいしたことはないと無視します。第二段階は、怒りで攻撃的になります。第三段階は取引です。第四段階は抑鬱です。そして第五段階が受容です。
『学び合い』は非常に面白いグループ学習だと思って飛びついた人は、しばらくして、自分の大事なところを変えることを求めていることに気づき、無視するようになったと思います。つまり、「『学び合い』。あ、新潟の先生の本で読んだことあるけど、でもね~、あれは理想論だよ」と片付けるのが第一段階です。
3年~4年前から第二段階に達しました。つまり、このまま進むと自分では制御不能のレベルになりそうなので、とにかく潰そうと思います。が、感情的なレベルなので、つぶし方が稚拙です。感情的なので攻撃も稚拙です。何の資料も読まずに表面的なことを感情的に述べ立てます。
最近は第二段階から第三段階に移行しつつあるようにあります。つまり、資料を読み妥協点を探り始めたようです。ただ、出発点が「自分は変わりたくない、納得したくない」なのですから読み方が浅く、不正確です。
では、次はどうなるでしょうか?私にはありありと見えます。「『学び合い』で言っていることは、我々のパクリだ」と言うはずです。その言明の一部は正しく、一部は間違っています。
教育自体は、数百万年以前からホモサピエンスは行っています。我が国の学校教育においても、積算すれは十億弱の人が十数年間の営んでいるものです。ありとあらゆることが起こり尽くしています。優れた教師も多く、多くのノウハウは蓄積しています。『学び合い』で述べていることは100%天地開闢以来はじめてだと主張するつもりはありません。『学び合い』は自然科学をモデルにしています。過去の事実はちゃんと踏まえ、その基礎の上に成り立っています。『学び合い』の始原の形は、優れた教師の姿をモデルにしています。それを整理したものでした。ただし、『学び合い』の特徴は、徹頭徹尾、実証的な学術研究によって記録・分析したものを基礎としています。これがオリジナリティの第一です。不遜ながら申しますが、我が国で全国的に広がった教育実践の中で、実証的な学術研究に基礎づけられている教科学習は、『学び合い』だけだと思います。
私が認知研究から『学び合い』研究に本格的に移行し始めたのは平成9年頃です。初期は優れた教師の姿をモデルにしており、問題意識も現状の教師が思いつくレベルのものです。例えば、どんなグループを形成したら話し合いが活性化するか、などを研究していました。『学び合い』で述べていることは、明治以降の多くの優れた教師の気づいていることです。本を丁寧に読めば、斎藤喜博や大西忠治の本にもその片鱗はあります。しかし、それらは実証的な学術研究によって分析されているわけではありません。
学校現場の先生方は忙しいし、他人のお子さんを預かっているので冒険は出来ません。結果として、常識の範囲を超えることが難しいのです。学術は物事を理論的に考えますので、今までの常識を純化し、推し進めると、こうなる、というものが分かります。そして、我々は一つ一つ検証してきました。そして平成14年ぐらいから、常識から乖離し始めるようになったのです。そして、それを十年以上爆走しているのですから、学校現場で普通に思いつくレベルでは理解不能になっています。ま、それがご批判の原因なのですが。
ですので、「『学び合い』で言っていることは、我々のパクリだ」と主張しても、現実には違いがありすぎるので無理があります。そうなると第四段階に移行します。さて、いつ頃になるでしょうか?
ま、いずれにせよ、感情的な議論の第二段階よりは、少しは勉強した人の第三段階の方がやりやすいです。妥協点は、週1の合同『学び合い』だと思っています。