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2009-08-12

[]もっと 08:07 もっと - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - もっと - 西川純のメモ もっと - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今までの教師像の場合、もっと多くの時間を教育に捧げ、もっと多くの指導法を学び、というのが素晴らしい教師でした。ところが『学び合い』は学校観と子ども観に尽きます。「もっと子どもは凄いことをやれる。」と「もっと」を求め続けられる。「もっと」を信じられる。それが『学び合い』における教師の職能です。これは、「今までは絶対に出来ないことを出来るはずだ」と「この子ども達だったら、ゴチャゴチャ教えなくても出来る」と信じ求め続けることです。これが出来るには、そのことを信じ、求めた結果として、子ども達がそれを乗り越えることを目のあたりにすることです。それらを実現するには、魔法は必要もなく、普通の子どもの普通の行動が蓄積するだけで実現できる、ただし、全員の知恵と力が必要である、ということを学ぶしかありません。だから、『学び合い』を経験した教師は、普通の教師がクレージーと思えることを信じ、求めます。

 ところがです。途中で止まる落とし穴があります。

 『学び合い』を実践すると、今までは考えられないレベルの達成度が実現します。そこで「最高の到達点」だと思ってしまい、「もっと」を求めなくなります。一度実現したことは、速やかにテクニックやノウハウに陥ります。つまり、それを実現した子どもの姿を見てしまうと、「ここで、ああやると子ども達はこうなって・・・、そこで、こうやると・・・」という風に分かります。そして、次には、そうなるように、そうなるようにし向けてしまいます。そうなると、直ぐにテクニックやノウハウに陥ります。

 このようなテクニックやノウハウだと、子どもは頭を使わなくなります。使わなくなると、易きに流れます。つまり、固定的な集団になり、『学び合い』が崩れ始めます。それが決定的にならないと気づきにくいものです。崩れてもテクニックやノウハウがあるのでそこそこが実現できるのです。これは『学び合い』的なテクニックを使った従前の授業に過ぎません。困ったことに、教材の力がある教師の場合は、そこそこが実現できるので、本当に問題が見えにくいのです。

 想像して下さい。いろいろなことを知っている校長が、いろいろなことを職員に教えれば、その校長の想定の範囲内のことは出来るかも知れません。でも、その校長の想定を超えることは起こりません。というのは、想定を超える行動を無意識に校長は押さえるからです。

 『学び合い』における素晴らしい校長は、意識的に指示しません。そこに立っているだけです。立っているだけで、体全体で管下の職員に対する願いや信頼を発します。ホモサピエンスはそういう生物です。そうしようとしなくてもそうなります。逆に、信頼しているふりをしても、直ぐにばれてしまいます。

 いや、校長の信頼や願いが集団の中に内在化すれば、そこに常にいる必要はありません。ポイントポイントに、易きに流れやすい集団に対して、巌のように求め続けるだけで結構です。

 『学び合い』においては管理職は、「もっと」を求め、管下の職員(つまり子ども)はそれを実現できる存在であることを信じるしかありません。簡単なようで、本当に求め、信頼するには『学び合い』を実践し、求め続けるしかあり得ません。では、もし、子ども達が出来なかったとき、教師は何をすべきでしょうか?それは、良い方法を指し示すというのが従来の教師です。『学び合い』では、方法を示しません。しかし、より多くの、より多様な集団と関わらせられる場を確保することが仕事です。また、それを実現できるための上位の社会の承認と金を確保することです。それこそが管理職の仕事です。校長を思い浮かべれば、そうでしょ?

 「もっと」を忘れ、教師が方法を与える、これは典型的な落とし穴です。「どうするか」なんて忘れ、「もっと」を求めること、これがどれほど徹底できるかが教師の職能です。自らに「足す」のではなく、ぎりぎりまでそぎ落として下さい。