■ [大事なこと]捨てる

大学院在学中から、学術論文を書きまくりました。ところが、今は、そこで出るものの結果が分かります。十年前、徹底的に全学の学生の指導に時間を費やしました。ところが、諸般の事情でそれが出来なくなりました。ところが、今は、そこで出るものの結果が分かります。やめてみて、「なんであんなことしていたんだろう」と思いました。博士課程に全力を尽くし、多くの人に博士の学位を与えました。ところが、今は、そこで出るものの結果が分かります。やめてみて、「なんであんなことしていたんだろう」と思いました。
年を重ねると、捨てることの意味が分かります。計画的、意図的に捨てねばと思います。捨てても生きられるほどの蓄積はあります。消える準備を考えられるようになれるようになりました。健全な年齢の重ね方のように思います。
■ [う~ん]伝えられない

『学び合い』をやりはじめて、本当に全員分からせたい、と思う先生は少ないことを知りました。大多数の子が分かることを目指している先生が大多数です。
ある高名な先生が「授業なんて全員わからなくていいんだ」と仰っていました。でも、それが成り立つのは、授業の成績で人間の序列をつけない価値観をクラスで共有している時だけです。残念ながら、日本中のクラスの中でそれが成り立っているクラスがどれほどあるでしょうか?
そして、授業の成績で色々な序列をつけられ、わからぬままの授業を1日6時間、週5日聞き続け、いつみんなに馬鹿にされるのではとビクビクしている子どもの気持ちを想像出来ない。
私はそういう子を山ほど見ました。それが私の教師の原体験であり、今に続くトラウマです。そういう子どもたちは色々な方法で身を守ります。教師から、同級生からの圧迫を暴言・暴行で自らを守る子。道化になったり、感情を殺したりすることによって身を守る子。不登校になって身を守る子。
そういう子は社会出れば、はじかれます。はじかれた者同士が身を守るために集まります。そして、反社会的な集団の中に身を置きます。それしか彼らが身を守る術はないのですから。
こう書いているうちに、涙が流れてきます。
あ~、大多数が分かればいい、授業なんて全員分からなくていい、と思っている先生方にどう伝えたらいいのだろうか。悪気があるわけではないのです。ただ、自らは経験したことがないので分からないのです。
でも、日本中のクラスの1割の子どもは、その地獄にいる。それを思えば気が変になる。でも、そう思っている私の方が変なのでしょう。どうしたらいいのだろうか・・・
でもね。私が本当に自分のクラスである西川研究室で「一人も見捨てず」を完璧に出来たかと言われれば、そうではありません、と正直に言います。でも、私レベルの教師で集団を運営したとしたら、『学び合い』の方が「まし」であることを疑ったことはありません。『学び合い』で分かったこと、個々の子どもの幸せを願うために、あえて個々の子どものことは見ないようにして(見えますが)、集団を見ることに集中する。このあたりのことをより多くの先生方に知って欲しいと願います。
その上で、上を狙う。
あ~、多くの人からはうざったいと思われうだろうな~。もっとやわらかく生きた方が楽だと言うことは分かっている。でも、私の代わりにうざったい生き方をしてくれる人がいないとそれができない。このまま五十代後半に入るのかな~